冬の金魚 56
「徴兵検査……」
兵役に耐えうる者を選別し、徴兵の候補とするための検査。当時、二十歳になった男子に全て義務付けられてたんだっけ。集会場とか小学校とかに対象年齢の者が集められて、芋の子を洗うみたいにみんなまとめて検査された──なんて話を、うちの顧客様最高齢、百歳を前にして未だ矍鑠としてる鶴松爺さんに聞いたことがある。
身長体重胸囲視力が規定の数値を満たしており、健康かつ身体能力が優れている順に甲乙丙丁にランク分けされるんだけど、体格良くても結核と思しき者は周囲への感染を恐れて即日帰郷で、障害を持っていたり、病中病後の者は兵役を免除されたという。
「下の病を持っておった者は弾かれたのぉ。ほっほっほ」って爺さん笑ってた。いくら頑健な身体をしていても、ぢ主とかは他が元気でも甲乙にはなれなかったらしい。戦場は過酷だもんな……。
戸籍のはっきりしている日本で、これを逃れることはできなかったと聞いている。しかも当時は村社会、どこの誰が検査を受けて、結果がどうだったかなんて近所の誰でも知っている──。
「記録されてるなら、なおさら入れ替わりなんて無理なんじゃ……」
「記録されているからこそ、なんですよ」
真久部さんは言う。
「水無瀬さんの叔父さんは、本当に身体が弱かったんです。調子の良いときは幼い甥っ子をおんぶすることくらいできたようですけど、それ以外は農作業はもちろん、力仕事の一切をこなすことができず、季節の変わり目には必ず風邪を引くような虚弱体質。ほとんど家の敷地から出ず、いるのかいないのか、ひっそりとしてまるで冬の金魚のように……」
冬の冷たい水の中で眠る金魚。橘の実が落ちても、ぴくりとも動かなかった。でも死んでるんじゃない、生きているんだ。見ていればわかる。
「……」
「そんな人が、兄弟の代わりに召集に応じてくるとは誰も思わないでしょう。常識的に考えて不可能です。それに当時は本当に戦局に余裕が無かった。住所氏名は一致している。となれば、検査の者が紘一と紘二の一と二を書き違えたんだろう、くらいのものになりますよ。兵士となり得る人間が一人でも多く必要だったんですから」
「それなら名前を偽ったりしなくても良かったんじゃないですか? 普通に兄になりすまして、水無瀬紘一として出征すれば……って、あれ?」
叔父さん、自分は紘一になるから、紘二に後は頼むって言ったんだよな? それなのに、何でわざわざ召集令状の名前に横棒をちょいと足して「水無瀬紘二」に……、あれ? わけがわからなくなってきた。今日一番のわけわかめだよ。
これは一体どういうことだと悩んでいると、そうですねぇ、と真久部さんは少し考えるように言う。
「叔父さんが『自分は紘一になる』と言った意味は、少し置いておきましょう」
「はい……」
「さっき、僕が言った叔父さんの言葉を覚えてますか? 『家神様のお力で、もうしばらくは元気でいられる』」
「覚えてますけど……」
いくらぼーっとしてる俺だって、ついさっき聞いたことを忘れるほどじゃないですよ? そう言うと、微かに微笑んで、続けた。
「もうしばらくは、元気。ということは、しばらく以上になったら元気ではない、ということになると思わない? しばらくしたら、元の身体に戻るはず。」
「い、言われてみれば」
言葉遊びみたいだけど、確かに元気なのは一時的っぽい感じ。
「叔父さんは後のことを考えたんだよ。つまり、敗戦後のことをです」
この戦争に日本は負けると、家神様から託宣を受けたんだと僕は推測してるんですが、と続ける。
「戦後の日本に最も必要なのは、人手。復興のための男手です。もし叔父さんが“水無瀬紘一”として出征していたら、残っているのは病弱な“水無瀬紘二”のはず。なのに、様々な復興作業に出てくるのは、周囲に水無瀬家の長男として顔を知られている人物。となると、怪しまれると思いませんか?」
「……」
実際入れ替わってるんだから、言い訳もできないよなぁ……。
「長男が弟を生贄に、兵役逃れをしたのだと噂され、周囲に疎まれるでしょう。いえ、激しく憎悪されることになるはずです。一人息子が、男兄弟全員が、帰ってこなかったなんて話が珍しくもなかった時代です。水無瀬家がどれほどの家だったとしても、嫌がらせを受け、村八分にされるはず」
そうなったら、後に残った人たちはどうなってしまうだろう──。今、この平和な時代にいて、俺には想像することもできない。
「その点、出征したのが“水無瀬紘二”であれば、父も、兄も、嫂も甥も、誰も辛い目に遭わない。身体の頑丈な兄は、国の復興にも役立つことができる。だから家神様の力で、周囲に元気な姿を見せながら出征していったんです」
それが召集令状の名前を改竄した理由です、と真久部さんは言った。