冬の金魚 45
※2018年12月30日推敲。2049文字→2053文字 話の流れは変わりません。
「……」
「道に置いた石ころに、必ず相手が躓くかといえばそれはわかりません。だけど人間、誰だってうっかり転んだり、足を挫いたりすることはありますよね。──何もない滑らかなところで、靴の底を滑らせて、焦って堪えようとしたのに結局尻餅ついて、いいトシして蒙古斑みたいな青痣ができたり」
そこ、妙に具体的? と思ったら、真久部さんの伯父さんの話だって。買いたてのお洒落な革靴履いてデパートのフロアを歩いてたら、新しすぎる靴のせいか、するっと足を滑らせて転んだらしい。
「伯父の話はいいんですよ、他に怪我はなかったし、甥っ子の僕の笑いを取っただけなので。まあ、伯父の場合はただの不注意だけど、妄想を募らせるタイプは、『あ、俺の置いた石に蹴躓いて転びやがった。ざまあ見ろ!』と昏い愉悦に浸るわけです」
「ま、まあ、妄想するだけなら……」
ちょっと陰湿で執拗だとは思うけど、相手に害がないなら、うん。
「彼にとって、そういう妄想を形にしたものが呪物だったんだと想像します。“石”を可視化した、と言ってもいい。ただの石ころと同義だから、必ずしもあの家の害になるものでもない──というか、それがわかっているので、さっきも言ったように彼は、身体が弱くて常に死が身近にある幼児だった水無瀬さんをターゲットに選んだわけです」
「……家の人たちが『うちの坊ちゃんが具合を悪くしている』と心配しているのを聞くたび、心密かにわくわくしてたんですね。幼い水無瀬さんがいつ死ぬのかと」
そして、そうしたのが自分だと、自分の力でそうなったのだと、その<白波>の人は思いたくて。
「ええ──。幼い命が力尽きてこの世を去ることになったとき、その、死との真摯な戦いの結果を横取りして、あの世に追いやったのは自分だと思いたい、ただそれだけのために、悪意の塊である呪物をセットしたんです」
そんな自己満足のために猫まで殺して、しかも逆恨みなのに。
「……」
「ある意味、娯楽ともいえる。一枚だけ買った宝くじみたいに。でも、木の根っこにウサギが転ぶのを待つくらいには不毛な行為だ」
『待ちぼうけ』という童謡があるでしょう、と真久部さんは言う。
「あの歌のように、本来はただの待ちぼうけになるはずでした。なのに、彼も知らないうちに呪物は力を持ち、あちらの世界の有象無象に混じって幼い水無瀬さんを害するようになってしまった。──そんなこととは知らず、水無瀬の叔父さんは急に増えてきたあちらのモノたちの執着から幼い甥を護るために奮闘していた」
「それは……呪いと、あっちの世界の悪いモノとの区別がつかなかった、ってことですか……?」
「呪物の存在を知っていれば、違いに気づいたかもしれませんが」
入り混じる害意と悪意、執着の中からそれだけを探し出すのは困難だったと思います、とつけ加える。
「そんなときに家宝の皿が母屋から蔵に移されることになって、叔父さんにはダメージだったはずです。頼みの金魚が急に現れなくなって、負担が増えたでしょうから……」
「なんで金魚は出て来なくなったんでしょう?」
水無瀬さんの思い出の中の金魚は、神出鬼没な印象なんだけどなぁ。
「その時点では何とも。単純に母屋から離れたせいか、それとも蔵に入れられたとたん猫と睨み合うことになり、余裕がなくなったからなのか──。叔父さん自身は、金魚が現れなくなったのは皿が母屋から離れたせいだと考えていたようですね」
真久部さんは、ふう、と息を吐いた。
「無理をしている自覚はあったと思いますよ。だけど、問題の<白波>の人が居るあいだだけ、と思って頑張っていたんだと思います。体力の衰えに気づいても、それは独りで悪いモノたちと戦っているせいで障りが出たのだと考え、耐えていた。問題が去って、皿が蔵から戻されさえすれば、また金魚が現れて一緒に甥を護ってくれると──でも、だんだ無理がきかなくなってきたんです」
「元々、身体の弱い人だったんですよね……」
そんな人が無理をすれば、当然体調も崩しやすくなるだろうし……。
「ええ。弱いせいで障りの影響も出やすいし、障りのせいでよけい身体が弱る。そうなると、当時のことです、結核になっても不思議ではない。その疑いだけでも幼い子供、しかも弱っている子供の近くに寄るわけにはいかない。リアルの危機を回避するため、叔父さんは水無瀬さんの傍から一時離れたわけですが──家人から伝え聞く甥の容態は、悪化する一方だった」
「でも、でも危ないところで叔父さんは水無瀬さんを助けにきてくれたんですよね? 金魚といっしょに」
熱に魘され、枕から頭も上げられなくなっていたとき、金魚が現れて部屋の中を泳ぎ、宙返りを見せてくれて……それから叔父さんと一緒にどこかへ行ってしまったと……。
「ってことは叔父さんは、そのときには蔵から家宝の皿を助け出してたんじゃ──」
俺の言葉を、真久部さんは首を振ることで遮った。
「いいえ。そのときの金魚はまた違うところから来たものでした。叔父さんはある意味、禁忌を犯したんですよ」