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冬の金魚 34

意味ありげにそんなふうに言われて……、つい思い出してしまう、いつかの鯉の自在置物。こっそり本体から抜け出しただけでは飽きたらず、ちゃっかり龍に成り上がり、目の前で見事なタッチアンドゴーをかましてくれたっけ。


──遍く月の光に満たされた空、天と地の間を縫って楽しげに、自由自在に駆け巡っていたあの姿。


自由にもほどがあるし、意味もわからず腑にも落ちない不可思議な出来事だったけど、あれ、現実だったらしいんだよな……。


「……」


じっとこっちを見てる真久部さんからそっと目を逸らし、俺は注いでもらったお茶を啜る。う……失敗だ。胃の中でバターサンドが膨らむ……。


「叔父さんだけだったそうです」


ぽつん、と真久部さんが言った。


「え?」


胃の重さを一瞬忘れ、思わず顔を上げると、いつもより静かな印象の瞳に出会う。ちょっと珍しい、黒褐色と榛色のオッドアイ。


「叔父さんだけだったんだそうですよ、幼い水無瀬さんの訴えを聞いてくれたのは」


「……」


「部屋の隅の暗がり、電灯の傘の裏側、襖の隙間。そういうところからオバケが自分を睨んでる、怖い、ここから連れ出してほしいと泣いても訴えても、子供にはよくあることだと、両親、祖父、使用人、誰一人として取り合ってくれなかったとか。……大人にだって覚えがある、自分の通ってきた道だからね、先程話したアリス症候群のようなことは、子供の頃は誰にでも似た記憶がある──」


穏やかな声、遠い眼差し──。ふと思った。子供の頃の真久部さんには、この世界がどんなふうに見えていたんだろう……。


「そんな時期もいつかは過ぎると、大人は経験的に知っているから、深刻に考えない。調節が済んでしまって、もうおかしなものも見えないのでね。見えないものは、大人にとっては存在しないのと同じ。だから仕方がないんだけれど、水無瀬さんは孤独だったんですよ。誰にもわかってもらえなくて……」


子供にとって、大人に否定されるということは、大人が思う以上に辛いことですから、と言う。


「でもね、普通はそれでいいんです。大人が変に反応して持て囃したりすると、子供はその調節が合っていると勘違いしたまま成長するかもしれないし、実際はそのほうが困る」


自称“霊感がある”という人の中には、幼少の頃のアリス症候群を拗らせただけの人もいる、らしい。大人にもこの症状を持つ人がいるが、そういうものだという自覚があるので、安易にオカルトに結びつけたりはしないということだ。


「子供は怖がるけれど、放っておいてもいつかは見えなくなるものだし、害もないからそれでいい……けれど、この場合はそうでないものが混じっていて、幼い水無瀬さんの健康をじわじわと蝕みつつあった。──そのことに、叔父さん以外の誰も気づいていなかったんですよ」


俺はふと、むかし音楽の時間に先生が聴かせてくれた、シューベルトの『魔王』という歌曲を思い出した。


霧にその姿を取り、枯葉のざわめきを声に使って、恐ろしい魔王が子を連れて行こうとしきりに誘いをかけてくるというのに、父には見えず聞こえず……子の尋常でない怯えように心慄かせつつ、それでも必死に励ましながら父は馬を駆り、ようやく宿に辿り着くも、子は既に息絶えていた──。


「……そこにあると知らないものに気づくのは、とても難しいことだと思います」


歌はそこで終わっているけれど、親になった今は歌われなくてもその先がわかる。子を救えなかった己の無力を、父がどれだけ嘆き、悲しんだか──。


「ええ、そうですね」


真久部さんはうなずく。


「でも、だからといって、人に認識できないものを在ると主張しても、なかなか信用してもらえないし、下手をすれば頭がおかしいとされて、遠ざけられてしまうこともある……。だから叔父さんは誰にも何も言わず、黙って甥っ子を護ることにしたんだと思います」


「……」


視える人にも苦労があるんだな。でも、そういう(・・・・)危険からも大切な人を護れる力があるというなら、少しうらやましいかもしれない……。


「幼児の頃の、あまり楽しくない思い出だし、水無瀬さんもこれまで特に思い出そうともしなかったそうっですが、話しているうちに、その頃の記憶が甦ってきたらしくて……いろいろ語ってくださいました。どうして忘れていたのかと、不思議がりながら」


叔父さんは水無瀬さんを肩車して、よく散歩に連れ出してくれたそうですよ、金魚をお伴に引き連れて、とかすかに微笑みながら真久部さんは続ける。


「朝でも昼でも夜中でも、いきなりわけもなく怖くなって震えているとき、熱が上がって苦しいとき、いつでも叔父さんは金魚と一緒に来てくれたそうです。──もちろん、お母様やお父様も来てくれたし、看病もすればあやして宥めてもくれたけれど、一番何も怖く無くて安心できたのは、叔父さんと金魚が傍にいるときだったそうです」


微熱が続いて眠れず、だというのに迫る悪夢が怖くて目を閉じることもできず、ただぼーっと時が過ぎるのを待つしかなかった夜更け、ふと気づくと叔父さんが水無瀬さんの手を握っていてくれて、赤い金魚がすいすいと布団の周りを泳いでいた、というようなこともあったらしい。


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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、元はみんな同じ<俺>。
『一年で一番長い日』本編。完結済み。関連続編有り。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』慈恩堂以外の<俺>の日常。
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