私は自分が正しいと思うことをしているだけです
王宮の大広間は、シャンデリアの光と弦楽の調べに満ちていた。季節の花が飾られた長卓には銀の食器が並び、王国中の名だたる貴族たちが美しく着飾って談笑している。セレナ・ヴァイスフェルトは、その華やかな空気の中にいながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
婚約者である第二王子クラウスが、いつもと違う目でこちらを見ている。隣には伯爵令嬢イレーネ・ロートバルトが寄り添い、クラウスの腕にそっと手を添えていた。
広間の中央に進み出たクラウスが、よく通る声で宣言した。
「本日、皆に伝えたいことがある。私はヴァイスフェルト公爵家のセレナとの婚約を解消する」
ざわめきが波のように広がった。セレナは呼吸を忘れた。
「お前との間には、何もなかった。心を通わせられる女性がようやく見つかったんだ」
クラウスの視線がイレーネに向けられる。イレーネは控えめに微笑みながらも、勝ち誇った光を瞳の奥に宿していた。
百を超える視線がセレナに集中した。同情、好奇、嘲笑。それらが肌を刺すように突き立てられる。セレナは唇の内側を噛み、震えそうになる手を握り締めた。泣くものか。ここで崩れるものか。
「――承知いたしました」
声が震えなかったのは、奇跡に近かった。一礼して踵を返し、広間を出る。背中に数百の視線が刺さるのを感じながら、セレナは一歩一歩、まっすぐに歩いた。
誰もいない廊下に出た瞬間、膝から力が抜けた。壁に手をつき、唇を噛む。涙は出なかった。代わりに、胸の奥に灼けるような痛みだけが残った。
婚約破棄から数日で、セレナを取り巻く世界は一変した。
社交界では第二王子派が幅を利かせている。クラウスの決定に表立って異を唱える者はおらず、むしろイレーネを中心とした新しい輪がすでに出来上がりつつあった。セレナに同情の目を向ける者はいても、公然と味方をする者はほとんどいない。
父であるヴァイスフェルト公爵は、娘を書斎に呼んで静かに言った。
「しばらくは動くな。政治的な行動は一切取るな。嵐が過ぎるのを待て」
正しい判断だとセレナにもわかっていた。だが、待つことしかできないという無力さが、じりじりと心を焼いた。
茶会に出れば、イレーネ派の令嬢たちがわざとらしく声をひそめて囁く。
「可哀想に。でも、やっぱり殿下には物足りなかったのよ」
「地味だものね。殿下のお隣に立つには華が足りないわ」
聞こえるように言っているのだ。セレナは微笑みを顔に貼り付けたまま、紅茶のカップを静かに持ち上げた。手が震えていないか、それだけを気にしていた。
婚約破棄から一月が過ぎた頃、セレナは気晴らしに王都の書店を訪れていた。外交史の棚の前で古い文献を手に取った時、背後から声がかかった。
「ヴァイスフェルト公爵令嬢ですね。少しお時間をいただけますか」
振り返ると、長身の青年が立っていた。濃紺の上着に銀の釦。宰相府の官服だ。切れ長の目と、感情を抑えた静かな声。セレナは記憶を辿り、その顔に見覚えがあることに気づいた。
「宰相補佐官のアッシュフォード卿……でしたか」
「レオン・アッシュフォードです。覚えていてくださったか」
レオンはセレナを書店の奥にある茶房に案内した。人目につかない小さな席に向かい合って座ると、レオンは単刀直入に切り出した。
「半年前、ザーレン王国の使節団との茶会で、あなたが使節の要求を巧みにかわしながら、こちらの条件をほぼすべて飲ませた場面を見ていました。見事でした」
セレナは目を瞬いた。あの茶会のことを覚えている人がいるとは思わなかった。父に頼まれて同席し、場の空気を読みながら通訳の言葉の裏を読み取り、使節の本音を引き出しただけだ。
「あれは、父の指示に従っただけのことです」
「ご謙遜を。あの場にいた外交官の誰よりも、あなたは相手の心を読んでいた」
レオンの表情は変わらなかったが、声にはっきりとした敬意が混じっていた。
「本題に入ります。第一王子ヴィルヘルム殿下は、次の王位継承評議会で不利な状況にあります。第二王子派が中立貴族の取り込みを進めており、このままでは王位はクラウス殿下のものになる」
セレナの胸がわずかに痛んだ。クラウスの名前を聞くだけで、まだこうなる。
「それは……お気の毒ですが、私にどうしろと」
「あなたの交渉の才を、お借りしたい」
セレナは黙った。これは、元婚約者に対する政治的な敵対行為になる。復讐と取られるだろう。いや、実際にそうなのかもしれない。
レオンはセレナの逡巡を見透かしたように言った。
「復讐ではなく、正しい選択を国にさせるためです。クラウス殿下の周囲に集まっている者たちの顔ぶれを、あなたもご存じでしょう」
セレナは知っている。イレーネの実家であるロートバルト伯爵家は、鉱山利権の拡大を狙っている。他にも、クラウスの甘さにつけ込んで私腹を肥やそうとする貴族たちが群がっていた。クラウス自身に悪意はないのかもしれない。だが、あの人は周りの声に簡単に流される。
長い沈黙の後、セレナは顔を上げた。
「協力します。ただし、条件がひとつ」
「何でしょう」
「私が関わっていることは、できる限り伏せてください。復讐だと思われたくはありません」
レオンは初めてわずかに口元を緩めた。それが彼の微笑みなのだと、セレナはこの時はまだ知らなかった。
「承知しました」
レオンがセレナに託した最初の仕事は、中立を保つ有力貴族メルツ伯爵の説得だった。
「三ヶ月、足を運びました。が、色よい返事をいただけていない。頑固な方です」
セレナはメルツ伯爵の情報を頭の中で整理した。頑固で実直な老貴族。だが、その妻であるメルツ伯爵夫人が領地の孤児院の運営に心を砕いていることを、セレナは知っていた。以前、夫人が社交の場で孤児院の話をした時、誰も真剣に聞いていなかった。セレナだけが最後まで耳を傾けたことがある。
「レオン様。伯爵ではなく、まず夫人にお会いします」
レオンは怪訝な顔をしたが、口は挟まなかった。
セレナは伯爵夫人に手紙を出し、孤児院について詳しくお話を聞かせてほしいと申し入れた。夫人は喜んで応じ、茶会の席で二人は孤児たちの教育や自立支援について語り合った。夫人の目が輝いていた。この話題に本気で関心を持つ貴族の令嬢など、ほとんどいないのだ。
話の流れの中で、セレナはさりげなく伯爵の近況を尋ねた。夫人はため息をついた。
「主人は最近、ずっと渋い顔をしているのです。領地の北を通る交易路が荒れてしまって、商人たちが迂回するようになって。いくら陳情しても、王宮は取り合ってくれないと」
セレナの中で、歯車が噛み合った。
翌日、レオンに交易路の件を伝えると、レオンはすぐに第一王子派の政策案に交易路整備の項目を加えた。セレナは夫人を通じて伯爵との面会を取り付け、具体的な整備計画を携えて臨んだ。
メルツ伯爵は初め、警戒した表情でセレナを見ていた。だが、セレナが示した計画の具体性と、何より自分の領地の事情を正確に理解していることに、老伯爵の目が変わった。
「……ヴァイスフェルト公爵の娘か。父君に似て、よく人を見る」
一週間後、メルツ伯爵は第一王子派への支持を表明した。
報告を受けたレオンは、珍しく目を見開いた。
「一週間で成し遂げたのか。私が三ヶ月かけて動かせなかった相手を」
「相手が何を本当に求めているかを知ること。それだけのことです」
セレナが控えめに微笑むと、レオンはしばらく黙ってセレナを見つめていた。その目に、初めて出会った時にはなかった温度が宿っていることに、セレナはまだ気づいていなかった。
それから、セレナとレオンは二人で次々と中立貴族を訪ねた。
セレナが相手の懐に入り、本当の要望を聞き出す。レオンがそれを政策に反映させ、具体的な見返りを提示する。二人の連携は驚くほど噛み合い、月を追うごとに第一王子派の勢力は着実に広がっていった。
作戦を練る夜が増えた。レオンの宰相府の執務室で、小さな机に資料を広げ、向かい合って議論する。紅茶が冷めるのも忘れて言葉を交わし、ふと窓の外を見れば夜が白み始めていることもあった。
ある夜、セレナが何気なく「この紅茶、少し苦いですね」と呟くと、翌日には机の上にセレナの好きな蜂蜜入りの紅茶が用意されていた。レオンは何も言わず、いつもの無表情で書類に目を落としている。
「覚えていてくださったんですか」
「仕事仲間の好みくらい把握しておくものだ」
素っ気ない言い方だったが、耳の先がわずかに赤い。セレナは小さく笑って、温かい紅茶を口に運んだ。胸の奥がじんわりと温かかった。
ふと思った。クラウスといた頃、自分は何だったのだろう。パーティでは彼の隣に立ち、微笑み、求められた通りの言葉を口にする。それだけだった。意見を求められたことはない。考えを聞かれたこともない。セレナという人間ではなく、「公爵家の令嬢」という肩書きだけが必要とされていた。
レオンは違う。セレナの言葉に耳を傾け、意見が食い違えば真剣に議論する。時に厳しいことも言うが、それはセレナを対等な存在として見ているからだ。
この人の隣にいると、自分が自分でいられる。その実感が、日に日に深くなっていった。
風向きが変わりつつあることに、第二王子派も気づき始めていた。
イレーネ・ロートバルトは焦っていた。中立派の切り崩しがうまくいっていない。それどころか、確実に味方だと思っていた貴族の何人かが態度を曖昧にし始めている。
イレーネは手を打った。第二王子派の貴族を通じて、第一王子ヴィルヘルムに関する醜聞を捏造して流布させようとしたのだ。王子が密かに外国に資金を流しているという、根も葉もない噂だった。
だが、セレナの耳は広間の隅にまで届いていた。
かつて社交界で築いた繋がり――侍女たちとの何気ない会話、夫人たちとの茶会での信頼関係――が、今になって情報の網として機能していた。イレーネの側近の侍女が、別の令嬢の侍女にうっかり漏らした一言が、巡り巡ってセレナの耳に届いた。
「醜聞を流す計画があります。ヴィルヘルム殿下に関する捏造です」
セレナの報告を聞いたレオンの表情が、一瞬だけ険しくなった。
「証拠はあるか」
「まだ確たるものは。ですが、情報源を辿れば、ロートバルト伯爵家に行き着くはずです」
二人は対策を講じた。醜聞が流れるより先に、中立貴族たちにそれとなく耳打ちした。近々、第一王子に関する噂が出回るかもしれないが、その情報源をよく見極めてほしい、と。
数日後、案の定、醜聞が社交界に流れた。だが、事前に注意を促されていた貴族たちは冷静だった。噂の出どころを調べ始める者が現れ、不自然な点が次々と指摘された。捏造が明るみに出るのに、さほど時間はかからなかった。
第二王子派の信用は大きく揺らいだ。クラウス自身は捏造に関与していなかったが、彼の陣営が汚い手を使ったという事実は消えない。中立貴族たちの心は、さらに第二王子派から離れていった。
王宮の回廊で、思いがけずクラウスと鉢合わせたのは、評議会の十日ほど前のことだった。
クラウスは以前より痩せたように見えた。傍らにイレーネの姿はない。
「セレナ」
その名を呼ぶ声に、かつてのような余裕はなかった。
「お前が第一王子派に手を貸しているという話は本当か」
セレナは静かに頷いた。隠すつもりはもうなかった。
「お前は――俺への恨みで、こんなことをしているのか」
その言葉に、セレナの胸は不思議なほど凪いでいた。かつてならば動揺しただろう。怒りか、悲しみか、何かしらの激情がこみ上げただろう。だが今、目の前に立つこの人を見ても、胸に渦巻くものは何もなかった。
「殿下。私はもう、あなたのことなど考えていません」
クラウスの目が見開かれた。
「私は、自分が正しいと思うことをしているだけです。それだけのことですわ」
一礼して歩き去るセレナの背中を、クラウスはただ見つめていた。追いかける言葉を持たなかった。かつて隣にいた控えめな令嬢の姿は、どこにもなかった。
評議会の前夜。
宰相府の執務室には、明日の段取りを記した書類が山と積まれていた。最後の確認を終え、レオンが深く息を吐く。セレナも椅子の背にもたれ、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「ここまで来ましたね」
「ああ。あなたのおかげだ」
「レオン様の政策案がなければ、誰も説得できませんでした。お互い様です」
レオンはしばらく黙っていた。窓の外には、星が静かに瞬いている。
「……セレナ」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。セレナの心臓が一つ、大きく跳ねた。
「明日が終わったら、伝えたいことがある」
その声は、いつもの冷静なレオンとは少し違っていた。わずかに掠れて、どこか不器用に震えている。
セレナは胸の鼓動を感じながら、小さく微笑んだ。
「今、言ってくださってもいいのに」
レオンの耳が赤くなった。視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「……順番がある」
セレナは声を立てずに笑った。この人らしい。
「では、明日を楽しみにしています」
窓から差し込む月明かりの中で、二人の間の空気がやわらかく揺れていた。
王位継承評議会の日が来た。
王宮の大議場に、王国中の有力貴族が集っている。壇上には第一王子ヴィルヘルムと第二王子クラウスが並んで立ち、その背後にそれぞれの陣営が控えていた。
セレナは傍聴席の目立たない位置に座り、静かに議場を見渡した。レオンは宰相の隣に立ち、いつもの無表情で前を見据えている。
投票が始まった。ひとりずつ名前を呼ばれ、支持する王子の名を告げる。序盤は第二王子派がやや優勢に見えた。クラウスの表情に余裕が浮かぶ。
だが、中盤から潮目が変わった。中立と目されていた貴族たちが、次々とヴィルヘルムの名を口にする。メルツ伯爵が重厚な声で「第一王子ヴィルヘルム殿下を支持する」と宣言した時、議場にざわめきが走った。
クラウスの顔から余裕が消えた。イレーネは傍聴席で青ざめている。
最終的な票数が読み上げられた時、結果は明白だった。第一王子ヴィルヘルムが、次期国王に内定した。
さらに、議場の空気が一変する場面が続いた。宰相が立ち上がり、第一王子に対する醜聞捏造の件について調査結果を報告した。ロートバルト伯爵家の関与を示す証拠が、淡々と読み上げられていく。
イレーネの顔が紙のように白くなった。傍聴席から身を乗り出し、議場にいるクラウスに助けを求める目を向ける。だが、クラウスは視線を合わせなかった。
「俺は何も知らない」
その一言が、イレーネとクラウスの間にあったすべてを断ち切った。イレーネの目から光が消えた。かつてセレナに向けられた勝ち誇った微笑みは、もうどこにもなかった。
セレナはその光景を静かに見つめていた。胸に去来したのは、痛快さではなかった。ただ、遠い世界の出来事のように感じていた。
評議会後の祝賀の席で、第一王子ヴィルヘルムがセレナの前に歩み寄った。
「ヴァイスフェルト嬢。レオンから聞いている。あなたの尽力がなければ、今日の結果はなかった」
周囲の貴族たちが注目する中、セレナは深く一礼した。
「もったいないお言葉です。私は微力を尽くしたに過ぎません」
ヴィルヘルムが去った後、かつてセレナを陰口で追い詰めた令嬢たちが、気まずそうに目を逸らすのが見えた。中には、こちらに愛想笑いを向けようとする者もいた。セレナはそのどれにも特別な反応を返さず、ただ穏やかに微笑んでいた。
誰かを見返してやりたいとか、思い知らせてやりたいとか、そういう気持ちはとうに消えていた。自分の力で自分の道を切り拓いた。その事実だけが、静かに胸の中にあった。
祝賀会の喧騒を抜け出し、セレナはバルコニーに出た。夜風が火照った頬を冷ましてくれる。見上げれば、昨夜と同じ星が静かに光っている。
背後で足音がした。振り返らなくても、わかっていた。
「約束通り、伝えに来た」
レオンはセレナの隣に立った。いつもの冷静な佇まいだったが、声にはかすかな緊張が滲んでいた。
「俺はあなたを、才能があるから必要としたんじゃない」
セレナは息を止めた。
「あなたと過ごす時間の中で――あなたがいない未来を、考えられなくなった」
不器用な言葉だった。飾り気のない、ただまっすぐな言葉だった。
セレナの視界が滲んだ。クラウスに婚約を破棄された夜、泣かなかった。社交界で陰口を叩かれても、歯を食いしばって耐えた。なのに今、この人のたった一言で涙が溢れてくる。
クラウスは一度も、セレナ自身を見てくれなかった。公爵家の令嬢という器を見て、都合のいい時だけ隣に置いた。レオンは違う。セレナの言葉に耳を傾け、意見を尊重し、対等に向き合ってくれた。セレナという一人の人間を、まっすぐに見てくれた。
「私も」
声が震えた。構わなかった。
「私も、同じ気持ちです」
レオンの手がゆっくりと伸びてきて、セレナの手に重なった。大きくて、少しだけ冷たくて、かすかに震えている手だった。セレナはその手を握り返した。
星明かりの下で、二人はしばらく何も言わなかった。言葉は要らなかった。
数ヶ月後、王都の大聖堂で戴冠式が行われた。
ヴィルヘルム新国王が冠を受ける瞬間、大聖堂は万雷の拍手に包まれた。セレナはレオンの隣で拍手を送りながら、ふと思い返していた。
あの夜のことを。シャンデリアの下で、衆人環視の中、婚約を破棄された夜。あの時は、世界が終わったと思った。足元の地面が崩れ落ちて、どこにも立つ場所がないと思った。
でも今、隣にはレオンがいて、自分の力で切り拓いた居場所がある。あの夜は終わりではなかった。始まりだったのだ。
「どうした?」
レオンが小声で訊ねた。セレナの表情の変化に、すぐ気づく人だ。
セレナは小さく首を振った。
「何でもありません」
そっと手を伸ばし、レオンの手を握った。レオンは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐに握り返してきた。今度はもう、震えてはいなかった。
大聖堂のステンドグラスを通して、朝の光が二人の上に降り注いでいた。




