プロローグ
死ぬときは、もっと慌ただしいものだと思っていた。
実際は、とても静かだった。
天井を見て、呼吸の数を数えて、
もう十分だな、と自分で思った。
八十年、生きた。
長かったとも、短かったとも感じない。
思い出せる出来事はたくさんあるのに、胸を強く打つものは少なかった。
結婚はしなかった。
理由を聞かれることも、もうなくなった。
誰かを待っていたわけでもないし、誰かを拒んでいたつもりもない。
ただ、最後まで一人でいることが、いつの間にか自然になっていた。
それでも、思い出は偏る。
学生の頃の風景や、若い日の失敗よりも先に、
彼の顔が浮かんだ。
名前を呼ぶ声。
隣を歩くときの歩幅。
どうでもいい話をして、どうでもいいことで笑っていた時間。
――彼の時間は、途中で止まってしまった。
彼との帰り道だった。
信号は守られていた。
横から来た車が、すべてを壊した。
飲酒運転だったと、あとで聞いた。
その言葉を聞いたときの感情は、今でもはっきり覚えている。
運転席の男の顔も、覚えている。
視線の向き。
開いた口。
こちらを見ていたかどうかだけは、思い出せない。
忘れるはずがなかった。
忘れてしまえるほど、優しくはなれなかった。
あの頃の私は、泣くことしかできなかった。
私は、その先をひとりで生きた。
彼がいなくなった空白は、時間が少しずつ埋めてくれた。
彼がいない日常に慣れることは、必要なことだった。
同時に、それは悲しいことでもあった。
目を閉じる直前、
若い頃の自分が、彼の隣で笑っている光景が浮かんだ。




