第9話 王都への出発
特訓の最終日を終え、私たちは本邸の隅にある古びた離れの自室で、静かに夜を待っていた。三日後に迫った精霊品評会。けれど、他の家族が住む本邸からは、未だに何の音沙汰もなかった。
『……本当に、私たちを連れていくつもりはないみたいね』
私が本邸へと続く回廊の先へ視線を向ける。シャルロッテをこの狭い部屋に押し込めたあの侯爵たちは、最後まで私たちを「無能」として放置し、ここで存在さえ忘れ去られるのを待っていたのだろう。
ここから王都までは、馬を飛ばしても丸二日はかかる。何の呼び出しもないということは、あの日義母が言ったように、私たちを参加させるつもりなどないということだ。
「……いいよ、クレール。最初から自分たちで行くつもりだったから」
シャルロッテがくすりと笑い、懐からずっしりと重い革袋を取り出した。
私たちはこの三年間、ただ訓練に明け暮れていたわけではない。シャルロッテの『影渡』が完成に近づくにつれ、私たちは夜な夜な本邸の深部へと忍び込み、壁を抜け、侯爵たちの部屋や備蓄から「必要経費」を少しずつ、気づかれない程度に拝借してきたのだ。
この三年間、彼らは私たちにほとんどお金をかけてくれなかったのだ。これくらいは、今までの正当な対価として許されるはずだわ。
「これだけあれば、王都での生活も困らないね。……ねえ、クレール。昨夜、一緒に忍び込んだ時に使用人たちが話していた通り、今夜未明にはもう、お父様たちが乗る豪華な馬車の準備が整うはずだよ。夜明けを待たずに出発するつもりなのね」
『ええ。最高の特等席で、王都まで連れて行ってもらいましょう』
自分たちの運命を自らの手で切り拓く。そのための準備は、すべて整った。
『行きましょう、シャル。私たちの舞を、世界に見せるために』
「うん。最高の舞台にしようね、クレール」
私たちは一度も後ろを振り返ることなく、住み慣れたはずの冷たい部屋を後にし、本邸の影へと足を踏み出した。
深夜の静寂に包まれた本邸の正面玄関は、灯された魔石の光で青白く照らし出されていた。
昼間の冷遇が嘘のように、そこには活気が溢れている。御者たちが馬の足音を響かせ、重厚な装飾が施された大型の馬車を三台、等間隔に並べていた。
「あれだね、クレール。一番大きな、あの馬車」
シャルロッテが植え込みの影から指差す。それは家紋が大きく刻まれた、侯爵――彼女の父親が乗るための最高級の車両だった。
『準備はいい? 誰にも見つからないように、一気に潜り込むわよ』
私の声に、シャルロッテが短く頷く。
庭園の影を縫うようにして、私たちは馬車の背後へと回り込む。ちょうど使用人たちが大きな荷物を積み込み、誰もが足元への注意を疎かにした瞬間だった。
『今よ』
私の合図と同時に、シャルロッテが地面に落ちた巨大な車体の影へと手を伸ばす。
「『影渡』……! 」
彼女の身体が実体を失い、ドロリとした濃い闇へと変質していく。私もまた、彼女の精霊力と同調し、その深淵へと身を沈めた。
冷たく、どこか懐かしい静寂。物理的な世界から切り離された私たちは、馬車の底、地面と車体の間に生まれた深い影の中に完全に同化した。
直後、頭上から重々しい足音が聞こえてきた。
「忘れ物はないな? 精霊品評会で恥をかくようなことだけは許さんぞ」
低く、傲慢な声。シャルロッテの父親だ。その隣では、着飾った義母や義姉が、これから始まる栄光の旅路に浮き足立っている気配が伝わってくる。
彼らは自分たちのすぐ足元に、自分たちが切り捨てた「出来損ない」が潜んでいることなど、想像だにしていない。
「……ふふ。出発だよ、クレール」
影の中から届くシャルロッテの思考は、驚くほど落ち着いていた。
やがて、御者の鋭い鞭の音が響き、巨大な馬車がゆっくりと動き出す。振動は影を通して伝わってくるが、実体を持たない私たちを揺さぶることはない。とても快適な旅になるだろう。
馬車が屋敷の門をくぐり、私たちが閉じ込められていた「過去」を置き去りにして加速していく。
それから二日間、私たちは影の中で過ごした。時折、休憩のために馬車が止まるたび、頭上からは義姉の我がままな不満や、それを取りなす義母の猫なで声が聞こえてくる。
「ねえお母様、あの子にも品評会の招待状が届いていたけれど、連れてこなくて大丈夫だったのかしら?」
「ええ、案ずることはありませんわ。病弱ゆえに参加は叶わないと返信しておきましたもの。ほとぼりが冷めた頃に、そのまま病死したとでも報告して片付ければ良いのですわ。誰にも知られず、あのまま朽ち果てればいいのです」
そんな会話を聞くたび、私の隣で影と同化しているシャルロッテの気配が、わずかに鋭く研ぎ澄まされるのを感じた。怒りというよりは、自分たちが積み上げてきたものがどれほどの輝きを放つのか、その証明の時を静かに待つ、確かな自負に近いものだった。
『シャル、大丈夫?』
「……うん。むしろ、楽しみになってきちゃった」
そして三日目の朝。馬車の外から聞こえる喧騒が、これまでとは明らかに変わった。
石畳を叩く無数の蹄の音、人々の活気ある話し声、そして遠くから鳴り響く祝祭の鐘。
『着いたわね。王都』
馬車が検問を抜け、目抜き通りへと入って速度を落とす。見物客の歓声が影の中にまで染み込んでくる中、私たちは絶好の機会を待った。
大きな宿屋の車寄せに入り、御者が馬を止めた瞬間、侯爵家の者たちが誇らしげに馬車を降り、使用人たちが荷物へ群がるその隙を突いて、私たちは車体の影から隣の細い路地の闇へと滑り込んだ。
「『影渡』……解除」
石畳の冷たさが実体を持って足裏に伝わる。太陽の光を浴びたシャルロッテは、長旅の疲れも見せず、どこか晴れやかな顔で王都の景色を見上げた。
「……やっと来たね、クレール」
目の前には、白亜の殿堂を中心とした巨大な都市が広がっている。一族の馬車はすでに遠ざかり、豪華な宿の奥へと消えていった。
私たちは、自分たちの足で石畳を一歩踏み出す。ここにはもう、私たちを縛る壁も、無視する回廊もない。
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