第2話 ハズレ精霊と、差し伸べられた小さな手
視界を埋め尽くしていた赤が、急速に引いていく。代わりに伝わってきたのは、硬い石畳の冷たさと、鼻を突くような古い油の匂い。
「……あ?」
パステルカラーの雲も、虹色の風も、どこにもない。あるのは、煤けた灰色の天井と、自分を見下ろすいくつもの「足」だけだ。
「おい、これだけか?」
頭上から、苛立ちを隠さない男の声が降ってきた。精霊力の残滓が火花となって散る中、私は自分の姿を確認しようとしたが、手足の感覚はない。
ただ、床にべったりと張り付いた質量のない影になったような、自分の輪郭が黒い靄に溶けていくような、ひどく頼りない感覚があるだけ。
「失敗だ。期待させてこれか」
「精霊召喚の儀式に不備があったのでは?」
ひそひそとした囁き声が、石壁に反響して不気味に響く。視線を上げると、そこには豪華な、けれど趣味の悪い刺繍を施した服を着た男たちが立っていた。
「シャルロッテ。貴様、何を呼び出した」
冷酷な眼差しが、部屋の隅に向けられる。
そこには、一人の少女が立っていた。ひどく痩せて、サイズの合っていない古びたドレスを着た、小さな少女。
「……わかり、ません。お父様」
少女――シャルロッテの指先は、小刻みに震えていた。彼女は床に這いつくばる私を、大きな瞳で見つめている。
その瞳には、恐怖ではなく、どこか自分と同じ色を見たような、ひどい寂しさが混じっていた。
「出来損ないには、やはりゴミがお似合いということか。精霊術師、片付けろ。そんな不吉な煤玉、見てるだけで不愉快だ」
男――侯爵は、一瞥もくれずに背を向けた。
足音が遠ざかっていく。残された精霊術師らしき男が、面倒そうに杖を構える。
(ふざけないでよ)
私は叫ぼうとした。
人間はもうこりごりだって、あんなに言ったのに。せっかく手に入れた自由を、あんなゴミを見るような目で踏みにじられるのは、もう、たくさんだ。
『人間なんて――二度と関わりたくないって言ったのに!!』
渾身の叫び。
だが、口がない私の声は、音としては響かない。周囲の人間たちは、ピクリとも反応しなかった。
ただ一人、少女を除いて。
「……え?」
杖を構えた精霊術師の影で、少女が小さく声を漏らした。彼女は信じられないものを見るように、床の上の「私」を凝視している。
「いま、……あなたが、しゃべったの……?」
蚊の鳴くような、細い声。精霊術師は気づかず、杖の先に精霊力の輝きを溜め始めた。
『……聞こえるの?』
私がしゃべりかけると、シャルロッテの瞳に、初めて微かな光が宿った。彼女は誰に命じられたわけでもなく、震える足で一歩前へ踏み出し、私の前に跪いた。
「待ってください。この子は、ゴミじゃありません」
汚れの目立つ小さな手が、ゆっくりと、恐る恐る伸ばされる。精霊術師が止める間もなく、その指先が私の黒い靄に触れた。
「あなた……私と、契約……してくれますか?」
シャルロッテが、必死な顔で私に問いかける。
『契約? はあ!?』
私は反射的に拒絶した。
『嫌。人間なんて二度とご免。放っておいて、さっさと精霊界に帰してよ』
突き放すように叫ぶ私に、シャルロッテは悲しそうに目を伏せた。
だが、背後で杖を構える精霊術師が、追い打ちをかけるように冷酷な言葉を投げた。
「契約を拒まれれば、その煤玉はそのまま霧散しますよ。精霊召喚の儀式で喚び出された精霊は、現世に留まる器となる契約者を得られない限り、数分と持たずに存在そのものが消滅しますので」
その言葉に、私は凍りついた。
消滅? 精霊界に戻るんじゃなくて、完全に消え去るっていうの?
「消えちゃうの……? 嫌……そんなの、嫌だよ……」
シャルロッテの手が、私の輪郭を包み込むように重なる。消えゆく私を引き留めるような、ひどくか細くて切実な感触。
(……チッ、最悪。ここで消え去るくらいなら、まだマシか)
私は心の中で毒づいた。
人間なんて大嫌いだ。でも、理不尽に喚び出されて、ろくに自由も味わわずに消滅するなんて癪に障る。
『……わかったわよ。契約してあげる。だから、そんな泣きそうな顔しないで』
私が溜め息をつくようにそう告げると、シャルロッテの瞳にパッと希望が灯った。
「……っ。本当に……?」
「お嬢様、本気ですか?」
背後で精霊術師が、冷ややかな声を出す。
「そんな実体も定かではない煤玉と契約するなど。契約できる精霊は一体のみ。後で別の精霊を呼び直せなくなるのですよ」
だが、シャルロッテは迷わなかった。私の輪郭を包む小さな手に、ぎゅっと力がこもる。彼女は精霊術師を振り返り、一度だけ、強くうなずいた。
「はい。この子が、いいんです」
「……ふん、好きになさればいい。では、その精霊に名を。名こそが魂をこの世界に繋ぎ止める楔となります。名を呼び、契約を完成させなさい」
名付け。
そういえば、前世の名前を教えるわけにもいかない。何か適当な名前を――そう思っていた、その時。
「あなたの名前……『クレール』。夜の闇を優しく照らす、光。そう呼んでもいいですか?」
クレール。思いがけず綺麗な響きに、私は一瞬、毒づくのを忘れた。
『……ええ。いいわよ、それで』
私が短く答えると同時に、私たちの間に契約成立を告げる眩い光が溢れ出した。
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