初恋お兄さん、婚約者だったのは運命!?
ーーー運命って残酷?
私は残酷だと思う。
だってあとたったの五分で、14歳の乙女心は死滅するのだから。
「私は人形じゃない!」
豪華な鏡台の前で、今にも泣き出しそうなメイドに向かって吠える。
「ライナお嬢様!? これは伯爵家同士の大切な・・・・・・」
「今日初めて会う人と婚約なんて、絶対に嫌だから!」
手をブンブン振り回せば、衣服の鬱陶しさが普段の5倍マシであった。
薄桃色のシルクで仕立てられたイブニングドレスは、さながら私をラッピングするための包み紙みたい。
父と母が私をこの箱に入れ、愛のない社交界という市場で、最も高い値をつける者ーーーつまり、裕福で将来のある伯爵子息に売りつけようとしているのだ。
「婚約婚約って、そんなにしたいならお父様が婚約したらいいでしょ!」
「だ、旦那様には、奥様がいらっしゃるので」
「私だってお母様はいるわ!」
メイド達はオロオロするばかりで話にならない。
時計の針は、約束の午後八時を指そうとしている。
(このままじゃ本当に婚約しちゃう!?)
顔合わせの舞踏会はもう始まり、八時から顔合わせする予定の婚約者は、この扉の向こうで今か今かと私を待っているのだろう。
「たった一度きりの結婚くらい自分で決めさせてよ!」
「ラ、ライナお嬢様ァ!?」
鬱陶しかった真珠の首飾りを乱暴に引きちぎり、悲鳴を上げるメイドを振り切って部屋を飛び出す。
磨き上げられた廊下、煌めくシャンデリア、遠くで聞こえる優雅な音楽、その全てが忌々しい。
人目を避け、裏階段を駆け下り、重厚な扉を勢いよく押し開けた。
警備の大人達がギョッとした顔で此方を見たが、新鮮な夜の世界へと駆け出す私を止めるものはいない。
屋敷の外にある庭園を全力疾走で通り過ぎると、少し大きめの川にぶち当たり、私の人生を賭けた逃避行の邪魔をする。
「向こう岸に渡れないじゃない!」
まるで運命が私を閉じ込めたいと言うかのように、その川には橋が一つもなかった。
夜会のために集められた馬車の轟音と、屋敷の喧騒から隔絶された空間。
その場所は闇は深く、ランプの光すら届かない。
(私、逃げる事すらできないの?)
ため息が出た。
自分の無力さ、運の悪さ、運命に残酷さに。
ドレスが汚れる事も気にせず、その場にへたり込む。
水の流れる音だけが虚しく響き渡る。
不規則な川の音色に耳を澄ませていると、背後から足音が聞こえた。
もう迎えが来たのか、短い逃避行だったな、としょんぼりしながら振り返ると、
「おやおや? こんなところで迷子かな、お嬢ちゃん」
聞き慣れない、野卑な声。
暗闇で見にくいとは言え、間違いなく知り合いの顔でもない。
「誰でs」
質問する暇もなく、大きな、汗臭い手が私の口を塞いだ。
(えっ!?)
戸惑いと驚き。
そして、それらが恐怖に変わるのに、時間はかからなかった。
目の前には、庭師とも使用人とも違う、粗暴で怪しい男の顔。
(まさかこれって!?)
宝石や金目のものを狙う人攫い。
普段家の中にいれば絶対に出会うことのない人種。
平民の中には素行の悪い者がいるという話は聞いたことがあったが、まさか自分がこんなタイミングで出会ってしまうとは夢にも思っていなかった。
「静かにぃ。旦那様に献上すれば、いい金にならぁ。こんな上物、久々だ!」
そう言って、男の手で乱暴に抱え上げられてしまう。
目まぐるしい勢いで事態が悪化し、取り返しのつかない状況になっている事に、思考が追いつかない。
(なになになに!?)
抵抗も悲鳴も上げられない。
ビリビリとドレスが破れる音だけが意識に残る。
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い・・・・・・!?)
なす術がない。
ただ、このまま運命が決まってしまうことへの、純粋な恐怖だけがあった。
口も押さえられて悲鳴も出せず、たった一人、誰の目にも届かない場所で恐ろしい所に連れて行かれる。
あまりの恐怖に体がガクガクと震え、涙がポロポロと溢れる。
(助けて・・・・・・助けて助けて助けて助けて!?)
心の中でどんなに叫んでも、声ひとつ発せない。
(助けて・・・・・・誰か・・・・・・)
絶望に打ちひしがれ、頭が裂けそうになった。
その時、
「返して貰うぜ?」
突然、バキンッと重い衝撃音が響く。
男の動きが止まる。
その直後、人攫いの体がぐらりと揺れて、糸が切れた様に倒れた。
抱えられていた私も地面に落ちる、直前に目の前へと綺麗な手が伸びて、その温かい腕に抱き留められていた。
先ほどの男へと目を向けると、気を失ったのかその場に崩れ落ちている。
(なにが・・・・・・起こったの?)
ゆっくり顔を上げると、抱いて支えてくれていたのは、背の高い、見知らぬ青年だった。
16歳くらいのお兄さん。
大人というには若すぎる顔つきをしているが、その表情は自信に満ち溢れている。
暗闇の中でぼんやりと、黒い騎士服にも似た紳士服を装い、鼻筋の通った横顔と、静かに光をたたえた真紅の瞳が印象的だ。
手には、自衛のためか、剣のようなものが握られている。
「あまり心配かけさせるな、クソガキ」
落ち着いていて、余裕に満ち、そして力強い声。
その声を聞いた瞬間、ドクンと高鳴った心臓は、恐怖ではなく、まったく別の理由で激しく高鳴り始めた。
「あ、あの、ありがと・・・・・・ございます」
彼はお姫様抱っこ状態からそっと下ろしてくれると、
「ここから離れるぞ」
とだけ言って、手を握る。
まださっきの恐怖体験に声が震えていたが、青年が手をギュッと握ってくれて、なんだか少し安心した。
「お、お兄さんは、誰なんですか?」
「さぁな。お前を見つけて、襲われてたから助けただけだ」
その赤い瞳が、真剣な光を湛えてこちらを見つめていた。
よくよく見ると、彼も貴族の様な外見をしている。
でも雰囲気は貴族というよりも、狩人か、あるいは冒険者のような颯爽としたものだが。
「こんな場所でなにしてたんだ? 両親が心配してるだろ。さっさと屋敷に戻んな」
青年はそう言って、私に頭に手を乗せた。
手のひらはとっても温かくて、何故だか心臓がドキドキと激しく高鳴る。
恐怖から解放された代わりに、新しい感情が胸を締め付けた。
死滅しかけていた乙女心が息を吹き返す。
(この人・・・・・・かっこいいかも)
親が決めた婚約者なんて、もうどうでもいい。
今、自分を助けてくれたこの強くて優しい青年、この方こそが、まさに「運命の人」に違いない。
「帰りたく、ないんです」
この人と離れたくない。
その一心で、彼の紳士服の袖を掴む。
今はこれが精一杯だが、気持ちが少しでも伝わったのか、青年は少し目を見張る。
しかし、すぐに面倒臭そうな表情へと変わった。
「なんで帰りたくないんだ? 嫌なことでもあったか?」
庭園の隅にある石のベンチへと誘導されると、彼は懐からハンカチを取り出し、それを敷いた所に座る様に促される。
「今日は、私の婚約者と顔合わせする為の舞踏会なんです。でも、私はその人の顔も名前も知りません。父と母が、家の体面だけを考えて、勝手に決めてしまったんです」
人攫いのせいでボロボロになったドレスの裾を握りしめ、苛立ちの悔しさが入り混ざった本音を吐く。
声もいつの間にか湿ったものに変わっていて、目がどんどん熱くなっているのが分かる。
「誰かも知らない人に、私の未来を決められるのが嫌で、逃げ出してしまったんです」
「へぇ。なるほどな」
「そ、それに・・・・・・あなたのような、そ、その、素敵な人と出会ってしまって、もっと嫌になりなりました!」
女性から好意を伝えるのははしたないとされているが、今言わなければもう一生言えるチャンスなど訪れない。
そう思って決死の気持ちで言葉にしてみたが、顔を上げて少年を見てみると、彼は黙って私の顔を見つめていた。
その表情は真剣で、嘲笑する気配など微塵もない。
綺麗な顔だ。
生意気かもしれないが、そう思ってしまった。
「私、結婚するなら、あなたのような人が良かったです。かっこよくて、優しくて、強くて」
思わず口から出た正直な気持ちに、流石の私も顔がボッと熱くなる。
青年は優しく目を細め、静かに答えた。
「勝手に自分の未来を決められるのは、確かに辛いよな。だから、逃げようって気持ちは、理解できるぜ」
「お兄さんも、ですか?」
「ああ。・・・・・・でも、受け入れちまえば案外どうってことねぇ場合もある」
「そんな!? じゃあ私、もう、親の決めた人と結婚するしか、ないんですか?」
これじゃあ本当に、家同士の利益のために用意された『人形』じゃないか。
そう思うと、とうとう目から雫が流れ落ちた。
運命は残酷。
この少年も、人生を誰かに決められている。
あんなに強くて、かっこよくて、優しい人でも、自分の運命には逆らえないなんて。
「そんなの・・・・・・あんまりです」
涙を流していると、隣の男は、これだからはガキは・・・・・・と言いながら、私の目を少し不器用にさすった。
「まぁ、もしだけどよ。どうしても逃げたいって言うなら、俺が逃してやるよ」
「・・・・・・え!?」
「親の決めた婚約者と結婚させない様にするくらい、俺でも出来んだろ」
少年はガリガリと頭をかきながら、無愛想な口調で言う。
照れ隠しなのか、柄じゃねぇ、とか言って少し頬を赤らめている。
でも、そんな無愛想な言葉が、心から嬉しかった。
「ほんとぉ?」
メイドも、家族も、家の誰も、私のこの気持ちを受け取ってはくれなかったのに、彼だけは分かってくれたのだ。
逃げていいと、逃してあげると、言ってくれたのである。
「本当に、逃がしてくれるの?」
「ああ。ガキの願いくらい叶えられなきゃ、家督は継げねぇだろうしな」
「・・・・・・ありがとう。・・・・・・お兄さん」
もう涙が止まらない。
こんなに泣いたのはいつ以来だろう。
青年の言葉が嬉しくて嬉しくて、水滴がとめどなく溢れてくる。
「お礼なんか、ガキが言わなくても良い」
そう言って頭をポンポンと撫でてくれた。
大きな手のひらが触れるたびに、心が軽くなっていく気がする。
そうして彼は、私が泣き止むまでずっと、隣で支えてくれたのだった。
⭐︎
「まずは婚約者に会ってみろ。じゃないと帰れねぇだろ?」
ひとしきり泣いた後、彼の太ももの上に座りながら、私はコクリと頷く。
何故そんな所にスッポリ収まっているかと言うと、あまりにも泣き止まない私が寒いだろうと気を遣ってくれた結果である。
「その婚約者も、多分そこまで酷い人間ではないと思うからよ。逃げる逃げないを考えるのは、その後でもいいだろ」
彼の言葉は、まるで私の婚約者のことを知っているかのようだ。
「なんで、そう言いきれるんですか?」
「なんで・・・・・・か」
少し難しい顔で夜空を見上げている。
そして、そうだなぁ、と言って私に微笑んだ。
「そいつは、お前が十四歳のガキであることも知っているし、そのガキがどれほど純粋で、自由を求めているかも、ちゃんと理解しているはずだからだな」
青年は私の肩に手を置く。
「まずは話してみろ。その上でそいつが嫌なら、その時は、俺が逃してやるよ。・・・・・・どうだ? 会ってみる気になりそうか」
彼の言葉は無愛想だけど、その全てが温かい。
私は勇気を貰えた気がした。
「お兄さんは・・・・・・私の、味方でいてくれますか?」
「ああ、味方でいてやるよ。・・・・・・だから、もう帰りな」
「わかりました。私・・・・・・私、戻ります。そして、ちゃんと話してみます」
少年は満足そうに頷く。
「そうしろ。さっ、夜会はまだ終わってないだろ。俺はさっきの野郎の後始末があるから、一人で帰りな」
「一緒に来てくれないんですか?」
「ここなら襲われることはねえからな」
「そうじゃ、なくて・・・・・・」
隣にいてほしい。
離れたくない。
今晩に留まらず、なんならずっと一緒にいたいくらいだ。
でも、そんなことは、私の気持ちとしても、立場としても言うわけにはいかないから。
「・・・・・・」
なにも言えずに無言で見つめるしかなった。
行かないで、もっと一緒にいて、と我儘な感情を抱きながら。
「心細いのか?」
私は首を縦に振った。
すると彼はクスリと笑い、また頭を撫でてくれる。
「大丈夫だ。勇気を出せ。ライナ」
「・・・・・・え!?」
なんで私の名前を?
そう聞こうとした時には、もう青年は川の方へと、フラフラ手を振りながら歩いて行ってしまう。
名残惜しさで、暫くは動かずに男の背中を眺め続けていた。
その姿が闇の中へと消えるその時まで。
(ありがとう・・・・・・お兄さん)
彼が見えなくなったところで、ペコリと頭を下げる。
名前は聞けなかったし、誰なのかも分からずじまいだったが、その言葉は確かに背中を押してくれたのだから。
そして多分、これが私の初恋。
当然、彼への恋心が実ることはない。
でも、この運命的な出会いが、自分に「向き合う勇気」を与えてくれたのだ。
ドレスの泥を払い、踵を返し走り出す。
舞踏会の明かりを目指して。
⭐︎
大広間の扉を開けると、先ほど逃げ出したはずの喧騒と華やかさが一気に押し寄せた。
私の姿を見た両親は、顔を真っ青にしてこちらへ駆け寄る。
「ライナ! どこに行っていたの!? こんなにボロボロになって・・・・・・」
「ライナ! 自分がどれ程失礼なことをしたのか、分かっているのか!?」
母の声はヒステリックに響き、父は激昂して私の腕を掴む。
しかし、もう泣き出したり、反抗したりしない。
だって、あの人と約束したから。
「お父様、お母様。申し訳ございません。後で、どんなお仕置きも受けます」
まっすぐ顔を上げ、はっきりと言葉を紡ぐ。
もうこの体には運命に嘆く子供心の代わりに、強い決意が宿っているのだ。
「まずは、婚約者様とお話しさせてください。私はその方とちゃんと向き合って、きちんと自分の意思で謝りたいです」
その言葉に驚いたのか、はたまた今の私を少しだけ認めてくれたのか、両親は一瞬目を見開いた後、それ以上怒らなかった。
「なら、急いで支度なさい。これ以上待たせてはいけないからな」
父は戸惑いつつも、渋々といった様子で私の身だしなみを直すよう使用人たちへと指示を出している。
「誠心誠意謝罪してからご挨拶するのよ」
両親は新しいドレスに着替えた私をホールの中心へと連れ出した。
(ありがとう、お兄さん。私、頑張るね!)
ホール中央には、厳かな雰囲気の中で、一人の青年が立っている。
彼は社交界の喧騒に惑わされることなく、静かに佇んでいた。
父が促し、恐る恐る顔を上げる。
伯爵子息である婚約者は、間違いなく怒っているだろう。
もしかしたら怒りに満ちた顔で出迎えられるかもしれない。
凄まじい暴言を吐かれるかもしれない。
でも、大丈夫。
私にはもう、味方でいてくれる人がいるんだから。
「ライナ。こちらが、婚約して頂ける伯爵子息ーーー」
父が婚約者を紹介しようとした、その瞬間。
視線は、その青年と絡み合った。
ルビーのように赤い瞳。
アメジストのような紫の髪の毛。
鼻筋の通った横顔。
その眼差しは、先ほど闇の中で私が見つめていた、あの優しく力強い光をたたえている。
彼が着ているのは、先ほどまで見ていた紳士服ではない。
高級な仕立てのフロックコート。
しかし、その雰囲気、佇まい、そして何よりも人攫いから助けてくれた自信に満ちた余裕は、紛れもなくあの青年だった。
思わず息を飲む。
驚いている私に目線を合わせるように、少し屈んだ彼の唇が、ゆっくりと微笑みの形を描く。
「初めまして。ラファリア・イナレウス嬢。もし宜しければ、ライナさん、とお呼びしても良いですか?」
「・・・・・・へ?」
さっきとは全く違う口調。
けれどその声も、表情も、全てがあの人だ。
驚きで開いた口が塞がらないでいると、彼が爽やかなスマイルを見せる。
庭園にいた少し気怠げな表情からは想像も付かない、完璧なイケメンスマイルだ。
「貴方の婚約者となるーーーレイモンド・アルバニルです。是非、ドニルと呼んでください」
彼、伯爵子息のドニルは、少しだけ表情に意地悪な笑みを含めて、愉快そうに言う。
「ちゃんと来てくれたようだね、可愛らしいお嬢さん?」
「!?」
人生で初めて、顔から火が出る、という経験をした。
自分がメチャクチャに真っ赤っかになっている事など、もはや鏡を見なくても分かる。
「こ、こんなことって・・・・・・」
私を助けてくれた「お兄さん」は、逃げ出したかった「婚約者」と同一人物だった。
なんという偶然?
運命?
とにかく色々納得した。
そりゃあ私の名前を知っててもおかしくないし、婚約者の人物像についてもよく知っているはずだ。
だって本人なんだから。
「あの! ほ、本当に・・・・・・お兄さん、なんですか?」
紅玉のように赤い瞳が、心を見透かしているかのように此方の目を見る。
暗かった外では分からなかった鮮やかな赤色の目が、シャンデリアの光に照らされて、キラキラと輝いているようだった。
「なんのことかな? 私たちが会ったのは、これが初めてだよ? 泣き虫のお嬢さん」
今や、反抗心も逃げ出したい気持ちも、一片も残らない。
あるのは、驚きと、運命的な再会への胸の高鳴りだけ。
私は彼の前に立ち、生まれて初めて、誰に強制されることもなく、自らの意思で深く頭を下げた。
「・・・・・・ごめんなさい、そして、ありがとうございます、ドニル様!」
この夜、私は逃げ出した。
でも、今なら分かる。
逃げ出す必要なんてなかったんだって。
運命という名の糸によって、私の初恋は始まるのだから。
始めるんだ。
私の意思で。
決めるんだ。
自由に。
「これって、運命ですかね?」
初恋の人はクスッと笑った。
庭園のベンチで、彼が去り際に見せたものと同じ笑顔。
「勇気を出した事、偉いですよ。ライナさん」
「はい!」
この人生が、お兄さんと一緒になれる『運命』だったら良いな。




