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第9話

「優秀っスね、あの人」

 ライトノベル売場の田丸さんとアイラさんをレジカウンターから眺めながら、夜のもう一人のアルバイトである辻卓郎君はぼそりと呟いた。

 高身長でガタイが良く、目つきが鋭い辻君は一見すると悪そうな若者にしか見えないが、実際にはただ寡黙で素直な男の子だった。

 初めて面接に来た時は金髪で正直かなり怖かったけど、そういえば田丸さんが「黒髪の方がかっこよく見えるかも」ともらしたら、翌週には黒く染めてきたんだったな。

「アイラさん、物覚えいいからね」

 辻君の視線は、しかし田丸さんの方にいっていた。いつものことだ。ただ、彼女が大学を卒業するまで残り三ヶ月しかない。

「辻君助けてぇ〜」

 なぜか教える側の田丸さんがへろへろになりながらカウンターまで戻ってきた。

「大丈夫っスか?」

「う〜ん……やっぱり私、教えるの苦手だぁ……」

「まだ三ヶ月あるから、ゆっくりでいいからね」

 タブレットへ視線を落としたアイラさんが後からやってくる。

「これは、興味深いお仕事ですね」

 ライトノベルと新文芸の売り上げはその大部分を新刊に依存している。棚前の商品が売れなくなって久しいが、最近はたとえアニメ化になっても、コミックと比べると爆発的な販売力があるタイトルが少ないのが現状だ。規模にもよるけど、ショーレースの受賞作でも万を超える初版はまず設定されない。いちタイトル当たりの初速は同程度の初版の一般文庫タイトルの二、三倍の販売力があるにもかかわらず、重版はかからず売り切りになるものが多いところに、このジャンルの特異性がある。

「客層が違うのでしょうか? ライトノベルと新文芸で出版社の販売シェアに差があるのですね」

 どうしたんだ突然……。

「両ジャンルとも販売占有で覇権を握っているのはK社のようですが、新文芸の実績で追走するα社が、ライトノベルではそこよりも低い位置にいるのは面白いです。柏木書店だけの傾向なのか……地域性もありそうですね。版元の資本力の差がそのままヒット作のメディアミックス戦略の差に繋がっているということなのか。女性向けだと、レーベルや作品のテーマよりも作家個人のファンが多いという印象でしょうか……」

「……生々しいから、やめましょう」

 僕が苦笑いすると、アイラさんは小首を傾げた後にふむふむと頷いた。

「アイラさん、異世界転生ものは読まないんですか? ファンタジーも興味があるっておっしゃってましたけど」

 きょとんとした顔で、アイラさんは僕を見上げた。

「あれはノンフィクションではないのですか?」

「え?」

「不慮の事故で急逝された方の中には別の世界への転生を希望される方も多いので、異世界転生というジャンルはそういった方たちの実話を元にされているものなのだと思っていたのですが」

「そ、そうなんですか……」

 トラ転が多いんだろうか……? センシティブすぎてこれ以上突っ込んだ話を聞くことはできなかった。

「レジ、ありがとうございました。交代いたします」

 辻君の前で、アイラさんは背筋をピンと伸ばしたまま頭を下げた。

「いえ、とんでもないっス」

 頭を戻してから、アイラさんは辻君の顔をジーっと見ていた。

「な、なんスか?」

「なにか、おすすめのコミックはありませんか? できれば愛について学べるものがよいのですが」

「え? な……あ、あい?」

「ごめん。彼女、読書にハマってて。マンガも興味が出てきたみたいなんだ」

「あー……じゃあ、恋愛ものなら、何作かありますよ。ちょっと古めですけど、貞子って呼ばれてる根暗な女の子が人気者のクラスメイトと仲良くなっていく少女マンガとか、感情表現が苦手な女子高生がアルバイト先の冴えない店長に恋しちゃうやつとか……オレの趣味が強いですけど」

「興味深いお話しです」

 目をキラキラさせながら、アイラさんはタイトルのメモを取っていた。

「マンガなら、アイラさん……BLなんてぇどーですか?」

 悪い顔をした田丸さんが割って入ってくる。

「びーえる?」

「ベーコンレタスの略です」

 こらこら。

「私、ワンコものが好きなんですけど、お話しできる人が少なくてですね。アイラさん、ブロマンスとか中華系からならイケると思うんですよねぇ」

「?」

「ダメっスよ、田丸さん。誘うにしても、まずは王道のハーレクイン系からです。沼ってもらうのはその後っス」

「ぶぅー、だってそれって結局TLじゃないですか。そりゃまぁ、そっち系もイケますけどね、わたしぁ」

「びーえるとてぃーえるは何がどう違うのですか?」

「お、知りたいですか? うふふふ……」

 だめだ、きりがない。それにボーイズラブにまで手を出されたら、アイラさんの一般常識がさらにカオスなことになる。

 僕はアイラさんにレジをお願いして、辻君と田丸さんを売場へ引き離した。

「……変わった人なんスか、あの人?」

 ファンタジーコミックの棚の欠本補充の発注をタブレットに入力しながら、辻君は僕に耳打ちした。

「君と田丸さんも十分変わってると思うけど」

「いや、おすすめの本聞かれるなんて、今時ほとんどないじゃないっスか」」

「まぁ、そうだね」

 悲しいことに、そういう機会はめっきりなくなってしまった。

 タイパやコスパの時代だ、特別な読書体験でもない限り、コミックはまだしも、小説や教養書の類を自発的に読むということ自体なかなか起こらないだろう。

 ——言われてみれば、そうだな。

 先日スマホやパソコンでアニメや映画鑑賞をすすめてみたけど、リアクションが薄かった。

 アイラさんが本を読むという行為にこだわるのは、何か理由があるのだろうか?

「そういえばなんですけど……」

 店内整理を終え、カウンターでレジ売上の点検作業をしていたら、バックヤードで返品作業を終えた田丸さんから声をかけられた。

「店長って、最近売場の手直しでやたらとメイドさんが表紙のタイトルを面陳にしてますよね?」

 レジ周辺の売場を手直ししていたアイラさんの背中が、一瞬ピクリと反応した。

「え? うそ?」

「ほんとです。前はポニーテールのキャラのやつばっかり面陳してたのに、新しい性癖にでも目覚めたんですか?」

 しまった、全然気にしたことがなかった。

「ほ、ほら、最近読んでるマンガによくそういうキャラクターが出てくるから、なんか影響受けちゃってるのかも。気をつけます」

「いやぁ~全然大丈夫です。真面目な店長でもそういうのは好きなんだなって、ちょっと親近感がわきました」

 アイラさんの方をチラと見てから、僕は笑ってごまかした。


 翌日の夕方。

 出勤してきた田丸さんは、レジカウンターのアイラさんを見て目を丸くした。

「おはようございます」

 いつも通り、礼儀正しくアイラさんが頭を下げる。

 その頭の後ろで、ポニーテールに結われた髪が揺れていた。

「お……おはようございます」

 先に出勤していた辻君がバックヤードから顔を出す。

「うす……」

 振り返った田丸さんは、シリアスな表情で辻君にぼそっと語りかけた。

「ウソみたいだろ? つきあってないらしいぜ、あれで」

 聞こえてるよ……。

 真っ赤な顔を見られたくなくて、僕は催事売場の商品を入れ替えながら、絶対に振り返らなかった。

「違います。妻です」

 アイラさんが真剣なトーンで言い放った一言が、静かな店内に響き渡る。

「おぉうっ⁉︎」

 もうだめだ。

 誰か助けてくれ。

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