第8話
仰向けのアイラさんに覆い被さったまま、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
僕を見上げるアイラさんの目尻に、みるみる涙が溜まっていく。
右手がふにふにする。下を見ると、僕の右手は味わうように彼女の左胸を揉みしだいていた。
「す、すいません……!」
上体を起こそうとした僕の首の後ろへ両手を回して、アイラさんは僕を強く引き寄せた。
「だめです!」
「い……⁉︎」
めちゃくちゃに抱きしめられる。胸の谷間に顔を埋められると、ほっぺたが暴力的なやわらかさに挟まれて息ができなくなった。
「ちょ……! アイらはん……⁉︎」
暴れる僕をホールドするように、今度は両脚を腰に絡みつけてくる。
こ、この姿勢はダメだ! どう言い訳しても、やらしいことをしているようにしか見えない!
「捨てるって言いました!」
涙声で、アイラさんは叫んだ。
なんで、そんなに……。
「わかりました! 捨てません! 捨てませんからッ!」
アイラさんの腕の締めつけがようやく緩む。
「ほんと……?」
顔を上げて息を吸い込む僕と彼女の視線が絡む。
「ほんとにもう、捨てるって言わない……?」
「言いません。ホントです。ただ、恥ずかしいので僕があんな小説書いてたことは内緒にしてください」
アイラさんは瞳を潤ませたまま、僕を頬に自分のほっぺたをすりすりとすり寄せた。
「二人だけの、秘密ですね」
アンバランスすぎる。
店ではテキパキ仕事を覚える大人の女性かと思ったら、今は無邪気な子供のようだ。
感情表現の仕方を知らないのか?
「と、とにかく、離れてください」
「……離したら、やっぱり捨てるって言う?」
「大丈夫です。信じてください。この体勢はマズいんです」
「? なぜですか?」
「いや、だって……これは、だ……だいしゅき、じゃなくて、大好きホールドと言って……」
「あなたたち、さっき大きい音したけど大丈夫?」
ノックもせずに、母がドアを開けて入ってきた。
「お昼ご飯できたから、みんなで食べ……」
抱き合うように腰を密着させた僕と、両脚を僕の腰に絡めたアイラさんに、母の両目の真ん中が釣り上がる。
「あらら、お楽しみ中だったのね」
「ちが……母さん!」
「終わったら降りてらっしゃい。チンできるようにしといてあげるから」
おほほほと笑いながら母が出て行った後、アイラさんは両脚を開いて僕を解放した。
すぐに部屋を出ようとして、思い留まる。
「原稿用紙、拾います」
別に自分の作品に未練はない。文才があるとも思わない。
だけど、アイラさんが捨てないでと言ってくれたことが、僕はうれしかった。
「お手伝いします」
散らばった原稿用紙を丁寧に拾い集める。ページなんか入れてないから、順番がわからなくなってしまった。
「とりあえず、ご飯にしましょう。母にも事情を話さなきゃ」
「なんの事情ですか?」
「だから、その……えっちなことしてたわけじゃないってこと、を……」
アイラさんが小首を傾げて、僕はぷいっとそっぽを向いた。赤い顔を見られたくなかった。
あぁ、もう。自分が嫌になる。
アイラさんは泣いた顔もかわいらしかった。
「今時はああいう服も普段着にするものなのねと関心してたのに、買ったその日に襲いかかるとはねぇ」
「だからッ! 違うってば」
洗い物の手を止めて振り返る。
居間のこたつでみかんを食べながら、母がジト目で僕の方を見た。
「避妊はしなさいよ?」
「だぁーからぁー」
ふきんを絞って台所に散った水道の水を拭き取る。
「洗い物終わり」
「いつも悪いわね」
「いいよ、別に。この歳でまだ実家の世話になってるの、けっこう気が引けてるから」
「アイラさんと同棲でもしたらどうなの?」
一瞬、狭いアパートの一室で肩を寄せ合う自分とアイラさんを想像して、僕は言葉に詰まった。
「まんざらでもない、と……」
「部屋戻るね!」
これ以上母親のおもちゃにされるのはごめんだ。
廊下の階段を上がったところで足を止める。
そういえば、アイラさんの部屋に片付けた本を山積みにしたままだった。昼食の後、彼女はすぐに姉の部屋に戻って、それから二時間は出てきていない。
「アイラさん?」
ノックをしようとして、ドアが少し開いていることに気づく。
返事はない。
「入りますよ?」
そっと中を覗き込むと、アイラさんはベッドの脚にもたれかかるように目を閉じていた。
「すぅ……すぅ……」
と、かわいらしい寝息がかすかに聞こえる。手元には、さっき僕がぶち撒けてしまった原稿用紙の束があった。
「これって……」
きちんと表紙が一番上にきている。屈み込み、原稿用紙をパラパラとめくってみて、僕は驚いた。
一ページから、全て順番通りに並べ直されていた。
大変な労力だっただろうという申し訳なさと、まさか……という気持ちが胸の奥に同時に去来する。
——ページを暗記できるくらい、読み込んでたのか?
まだアイラさんがうちに来てから十日ほどしか経っていない。
いったい、いつから……。
目頭が熱くなる。
気づくと、僕は両手をぎゅっと握りしめていた。
僕は、もう、認めなければならなかった。
僕は確かに、天使に恋をしていた。
「ふ……ん……」
ぽよぽよとした表情でアイラさんが目を覚まして、僕は彼女の手元の原稿用紙からそっと手を引っ込めた。
「圭様……?」
はわわとあくびをしながら、ぼぉっとした顔でアイラさんが僕に視線を投げかける。
「すいません、本を取りに来たんですが、起こしてしまいましたね」
「寝てしまいました」
僕が積み上げた本の方を見る。三つだったはずの山が、今は四つになっている。アイラさんが読みたいものを選り分けたのだろう。
「あの……」
いいかな。
……いいよな?
「さっき、母がみかんを食べていたんですけど……」
「?」
「あったかいお茶とみかん、持ってきますから。一緒に、本でも読みますか?」
アイラさんの表情がぱあっと輝く。
「はいっ」
僕は人差し指で頬をぽりぽりとかいた。
「アイラさんは何を読むんですか? やっぱり『ほしきみ』の続き?」
「実は圭様の本の中に、面白そうなものがいくつかありましたので」
「SFとか、どうですか?」
「えすえふって、なんですか?」
「……すこし・ふしぎって意味です」
「ほぅほぅ」
「すいません、ウソです。サイエンス・フィクションです。……って、メモ取らなくていいですよ」
「ふぁんたじーとは違うのですか?」
「SFは未来の話が多いですね。これなんかは古典SFで、60秒過去の自分にメッセージを送るっていう話なんですけど……」
アイラさんは、興味深そうに僕の話へ耳を傾けていた。
本を片付け、みかんとお茶を持って彼女の部屋へ戻る。僕が小脇に抱えた読みかけのミステリ小説に、彼女はまた喰いついてくる。
ベッドの端を背もたれにしながら、僕らは並んで読書をした。夕暮れにはまだ少し早い、冬にしては日差しの暖かい午後だった。
時々、アイラさんの方を盗み見る。ページをめくる度にくるくると表情を変える彼女を眺めながら、僕はとてもやさしい気持ちになった。




