第7話
平日の昼下がり。
僕は姉の部屋に放置したままにしていた自分の本の整理に取り掛かっていた。
店は年中無休だが、朝のベテランスタッフに店長代理をお願いして運営できるようシフトは調整してある。アイラさんはまだ研修扱いだから僕と休みを同じ日に設定してあるけど、ちょうど母と近所のスーパーまでお昼の買い出しに行っているから、本を運び出すなら今が絶好のチャンスだった。
「こんなもんかな」
かき集めた本の山が三つほど出来上がって、僕は膝をついたままパンパンと手の平の埃を払った。
ほとんど家に帰ってこない姉の部屋は、ベッドがある以外はよくわからない南国の巨大な木彫りのオブジェや、幾何学模様なのかなんなのか、呪われていそうな西洋風の赤い絵画などが乱雑に配置されたファンキーな内装をしている。部屋の隅っこにある黄色がかった派手な色味のロッキングチェアは、その見た目とは裏腹に座り心地は抜群で、僕はよくこの部屋を読書で使わせてもらっていたのだった。
「変な本は……置いてないな」
改めて積み上げた本の背表紙を確認する。ミステリ小説と、バトルがメインのコミックの巻数ものがほとんどだ。
よかった。
とにかくアイラさんにラノベやラブコメマンガなんかを読まれたら、またそれがグローバルスタンダードだと理解されて大変なことになる。彼女の愛情表現が「ふしだら」な方向に行くのだけは全力で回避しなければ。
「えっちな本とか、こっちに持ってきてなくてよかった……」
「何を持ってきてなくてよかったのですか?」
「うわぁッ⁉︎」
突然耳元で声がして、僕は後ろを振り返った。
しゃがみ込んだアイラさんの顔が近い。僕はお尻一個分後ずさった。
「な、なんですかその格好⁉︎」
アイラさんは、メイド服を着ていた。
初めて見た。コスプレ用の衣装だろうか、紺のスカートは短く、胸元は大胆に開いていて、僕はその谷間に意識が吸い込まれそうになるのを必死に抑え込んだ。
「お養母様に買っていただきました」
「へ……?」
「ファッションセンターかわむらというお店でルームウェアを見繕っていただいたのですが、私がこれを見つけて、家事のお手伝いの際に役立つということで、お給料から後払いする形でおねだりさせていただきました」
売ってる店も店だけど、何考えてるんだ、うちの親は……。
「似合わないでしょうか? 美琴さんにあわせてみたんですが……」
美琴というのは、『星降る夜と君の詩』のヒロインの名前である。
「……かわいいと思います」
俯きがちに僕が呟いて、アイラさんは笑顔で頬をピンクに染めた。
あぁ、くそ。
反則だ、こんなのは。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
アイラさんは僕が床に積み上げた本の山と壁際の本棚を交互に見た。木製の本棚は下から三段がまるっとなくなり、空になっていた。
片付けついでに、姉のよくわからない本も整理して場所を空けておいたのだ。
「アイラさん、本をよく読むから、並べられるようにと思って」
アイラさんの読書スピードはかなり速い。最初は速読の類かと思ったけど、集中すると物語の中に入り込んであっという間に読み進めてしまうタイプのようだった。
朝のベテランスタッフ三名からもなにやらおすすめの本を何冊も借りていたようだったし、アイラさん専用の棚があった方がいいのではと思ったのである。
「ほわぁ……」
妙な声を出して、アイラさんは瞳をキラキラさせた。ショーウィンドウの中のトランペットに憧れる少年のような反応に、悪い気はしなかった。
アイラさんはさっそくベッド脇の自分の本を本棚に並べ始めた。
こういう時、人の並べ方を観察するのは面白い。店の棚整理に慣れている自分などは、サイズを優先して大判を向かって左から並べてしまうが、著者の名前順だったり、背表紙のバランスや見映えで並べる人もいる。
アイラさんは、やはり『星降る夜と君の詩』のシリーズを先頭に持ってくるのだった。
すでに三巻まできている。非常にマズい。後半になるにつれ、イチャラブの描写がどんどん過激になっていくのである。なんとか別の本に誘導して読書の進行を遅らせなければなるまい。店のスタッフの前で迫られたりしたら、今度こそ一巻の終わりだ。
ただ……。
「『ほしきみ』、わざわざ買わなくても僕の部屋に全巻あるので、貸しますよ?」
つい、訊いてしまった。
きょとんとした顔で僕を見た後、アイラさんはふるふると首を横に振った。
「せっかくですが、お気持ちだけいただきます。この方の本はきちんと自分で揃えておきたいんです」
少し、嫉妬した。
著者の名前は「イエス岸本」。ペンネームだ。このシリーズの前には単巻ものを一冊出版しているだけの、大して有名というわけでもない作家だった。僕は前作も所持しているはずなのだが、そういえばあれはどこにいってしまったんだろう?
——初版だったんだけどな、あれ。
「本棚、うれしいです」
アイラさんが甘えた声で僕に身を寄せようとして、僕は慌てて後方へ飛び退いた。
そろそろ退散しなきゃこっちがもたない。
別にいいじゃないか——と、頭の中で悪魔が囁いた。
せっかく好意をもってくれてるんだ。お互い子供というわけでもない。仕事に支障さえきたさなければ問題はないはずだ。彼女を受け入れて何か悪いことがあるのか?
僕はブンブンとかぶりを振った。
盟約、とアイラさんは言った。結局条件が合うパートナーなら、別に相手が僕じゃなくてもかまわないんじゃないか……。そんな考えが頭から離れない。
誰か別の男性に押し倒され、それを受け入れているアイラさんを想像する。
——最低だ、僕は。
立ち上がって、積み上げた本の下に手を入れる。持ち上げようとした時、ベッドの枕元に置かれたそれが目に入って、僕は「う……」と呻いた。
「これ、は……」
分厚い原稿用紙の束。
大型のダブルクリップで上部を止めてある、それは僕が昔書いた小説の手書き原稿だった。
「え……? まさか……読んだんですか?」
いたずらが見つかった子供のように、なぜかアイラさんは顔を真っ赤にして口元を波打たせた。図星らしい。
僕の方は、羞恥心で顔中が沸騰しそうなほど熱くなっていた。
大学生の頃だった。今時パソコンやスマホでも手軽に文章が書ける時代なのに、毎日原稿用紙に書き殴っていた時期がある。居無井町に落ちた隕石を題材にした恋愛小説。隕石が落ちた日、学生の主人公と宇宙からやってきたヒロインが出会って恋をするだけの内容だ。文章も稚拙で目も当てられない出来だったと思う。
〝圭君、こんなの書いてるんだ〟
固く蓋をしていた記憶が蘇ってくる。気づくと僕はその原稿用紙の束を乱暴に掴んでいた。
「あ……」
「……ついでに、捨てておきますね。こんなのは、読まない方がいいですよ。もっとたくさん、いい本がありますから」
「だめ!」
「え……?」
アイラさんが語気を荒げて、僕はたじろいだ。
「だめです! 捨てないください!」
アイラさんが手を伸ばして、僕は咄嗟に原稿用紙の束を遠ざけた。
「アイラさん⁉︎」
「やです! や!」
しがみつくように揉み合いになり、僕らは床に倒れ込んだ。
弾みでダブルクリップが外れてしまい、大量の原稿用紙が宙を舞う。
「あ……」
息がかかる距離に、アイラさんの顔があった。
僕はアイラさんを押し倒す形で、彼女の上に覆い被さっていた。




