最終話
「お前、マジで大丈夫か?」
仁志が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「だから、別にこれくらいのケガなんともないってば」
「ツラじゃなくてよ、頭の打ちどころが悪かったんじゃねぇのかって言ってんだよ」
要するに、早瀬さんにフラれたのにあまり落ち込んでいないことを心配してくれているのだろう。
「ショックでおかしくなっちまったんじゃねーか?」
おかしくなったとは思わないが、そこまで落ち込んでいない自分に驚いてはいた。
「なんでニヤついてんだよ?」
「え? そう、かな?」
「おう、ばっちりおかしい」
「夢見てたみたいなんだ。なんかさ、とても、大切な時間だった。退屈のない毎日だったんだ」
言ってから、妙なことを口走っていることに気づく。
「やっぱ変だぜ、お前。話くらいいつでも聞くからな」
多分、立木に箒の柄で殴られて、意識が遠のいた後だと思う。
とても長い夢を見ていた。
自分が小説の物語の主人公になったような、そんな夢だった気がする。
目覚めた後に待っていたのは、平凡な時間だった。
頭のケガはすぐに治り、医者から懸念されていた視力が悪くなることはなかった。早瀬さんにフラれた後、残りの高校生活で何か特別なことがあったわけでもない。
居無井町。名前の通り、緩やかな時間が流れるだけの、何もない町。
冬が明け、卒業と春が来て、僕は町を出た。
大学時代、一度だけ僕が一人暮らしをしていたアパートに早瀬さんが訪ねてきたことがあったけど、少しのお金とアパートの鍵だけ渡して、僕は一週間実家に閉じこもっていた。早瀬さんへの未練はなく、彼女が持ち込む面倒事に巻き込まれるのはごめんだという気持ちの方が強かった。大学生の頃にあった特別なことといえば、それくらいだ。
なんでもないような、平坦な日々。
ただ、時々、どうしようもない寂しさが込み上げてくることがあった。
そんな時、僕は必ず本を読んだ。
だけど読み終えると、いつも決まって別の寂しさを覚えた。
「すごい展開だなぁ、ここで親友が裏切るなんて。これは予想できませんでした……」
隣に話しかけそうになって、言葉を切る。
「ね……」
誰もいるわけがないのに。
大学を卒業した後は、実家に戻らず都市部の小さな出版社に就職した。そして、一年も経たずに退職した。
入社して半年が過ぎた頃、営業の先輩が自分の成績を上げるために、実際には受けていない注文を水増ししていることがわかった。僕がそのことに気づいたのは、水増し受注の中に柏木書店も含まれていたからだった。
別にヒーローぶりたかったわけじゃない。でも、僕には許せなかった。各書店への水増しは本当に数冊程度だったけど、父が昔から発注数には特に厳格だったことを知っていたからというのが大きいかもしれない。
せめて、人の役に立つ仕事がしたいと思っていた。
でも、現実は甘くない。
不正をしていた先輩社員が手を回して、水増し発注は新人の僕のミスとして処理された。いろんな書店の本部バイヤーや店長に頭を下げて回った一ヶ月後、僕は会社に退職届けを提出した。
地元に逃げ帰り、体を壊した父から催促される形で、僕は柏木書店の店長になった。
それからの毎日は、忙しく過ぎていった。
年々本の売上が厳しくなる中、本屋は資金繰りがとにかく難しい。地方の弱小書店では好きな本を山積みできるわけでもないし、しても売れない現実がある。僕の楽しみは、手書きPOPを作って好きな本に設置することくらいだった。
半年前、姉が作家デビューしていたことがわかって、最新巻の発売にあわせて売場でフェアをしたことがあった。身内の作品に手製の拡材を付けるのはかなり気恥ずかしかったが、元々好きな作品だったこともあり、長文のおすすめコメントを入れたバカでかいPOPを作って売場に設置した。
その拡材のおかげというよりかは、地元出身の作家ということの方が理由としては大きいだろうけど、姉の第二作『星降る夜と君の詩』はよく売れた。
「なんか、異様に迫力のある売場だな」
その姉妹のことを覚えているのは、二人の髪の色のせいだろう。レジで忙しくしていて後ろ姿しか見えなかったけど、ブロンドのロングヘアーと赤毛のショートの組み合わせは、コスプレの類ではないかと疑いたくなるほど目立っていた。
「おっ、ちょっと元気出てきた? 本好きだもんね、お姉ちゃん」
赤毛の女の子は、隣のブロンドヘアーの女性に仕切りに話しかけていた。
「お姉ちゃんらしいよな、普段は大人しいくせに、後輩がパワハラされてるのにキレて上司フルボッコにするとか」
ブロンドヘアーの女性の肩が「シュン」と落ち込む。
「あ、せっかくだからこれ読んでみたら? 誰にもらったんだっけ……ほら、お姉ちゃん昔からおもちゃの指輪大事にしてるじゃん。ロマンチストなんだから、ラノベっていうの? こういうの読むのも気分転換になるかもよ」
僕は田丸さんに呼ばれてバックヤードに下がったので、その二人が『ほしきみ』を買っていったのかどうかを知らない。日々の業務に忙殺されて、数ヶ月過ぎた頃にはその姉妹のことも忘れてしまっていた。
「面接?」
年の瀬に、地球の裏側にいるという姉から電話がかかってきた。
《サイン会に来てくれたファンの子なんだけど、話してみたら大学の後輩でね。本屋で働いてみたいんだそうだ。この前、春にバイトの子が就職で辞めるから人手がいるって言ってただろ?》
「それは、ありがたいけど」
《美人だぞ?》
「その人、居無井町の近くに住んでるの? 若い人なんだったら、ショッピングモールの中にある本屋の方がいいんじゃない?」
《どうしても、柏木書店で働きたいんだそうだ》
「なんでまた……。なんにもない町なのに」
《柏木書店でたまたま私の本を買って、ファンになってくれたらしいよ。人生変わったってさ、だからお前の本屋がいいらしい。作家と本屋冥利に尽きるねぇ》
「作家ったって、姉ちゃんの方は副業じゃないか。いや、大学の教授の方が副業?」
《お前も言うようになったな。ま、じゃあ、決まりだな》
予定が空いている日にちを聞かれて、姉は一方的に電話を切った。
一週間後の水曜日、品出しを終えた僕はそわそわしていた。
──美人だなんて、姉ちゃんが言うから……。
「店長、面接の人来たって」
甲斐田さんに言われて、僕は文庫を品出しする手をビクリと止めた。
「今行きます」
「休憩室に通してある。すっっごい美人だったわよ?」
「あのね。何言ってんですか」
朝のベテラン三人組を尻目に、僕は休憩室へ急いだ。
「失礼します」
ノックして中へ入る。
「あ……」
立ち上がろうとした彼女を、僕は手で制した。
「かまいませんよ。座って楽にしてくださいね」
姉や甲斐田さんたちのせいで、少し緊張していた。
相手の顔もよく見ないまま、僕は彼女の対面の椅子に腰掛けた。
彼女もまた少し俯いていて、顔はよく見えない。
左目の下に泣きぼくろがあった。
「これを……」
差し出された履歴書を確認する。
職歴の最後に、大手企業の事務職が入っていた。
三ヶ月前だ。自己都合で退職とある。
姉からフルタイム希望と聞いていた僕は、思わず首を捻った。
「あの……うちの場合、扱いは正社員じゃなくてアルバイトになりますけど、大丈夫ですか? 最低自給しか出せないと思いますけど」
「大丈夫です」
「商品は重いし、品出しもそこそこ大変ですよ? 大きい本屋さんみたいに、売場も華やかじゃないから」
「ここで働かせていただきたいんです」
「本がお好きなんですか?」
「はいっ」
彼女が顔を上げる。
目が合った瞬間、僕と彼女は同時にハッと息を呑んだ。
長い。
長い沈黙の後。
「はい……大好きです、圭様」
そう言って、アイラさんは天使の笑顔でほほえんだ。
了




