第58話
アークエンジェルは、アイラさんだけではなく僕にもその笑顔を向けた。
不思議なあたたかさがあった。何かが許されていくような感覚。顔の痛みまで消えていくような気がする。
「柏木圭さん」
「は、はい!」
「本当にごめんなさい。私たちの事情に巻き込んでしまったことをお詫びします。辛い思いをさせてしまったわね」
目を伏せるアークエンジェルに、僕は慌てて両手を振った。
大きすぎる。浮いているとはいえ、少し動くだけで大竹山が揺れそうだ。
「いいんです、そんな! よくわからないけど、アイラさんが無事だっただけで、僕は大丈夫ですから!」
「圭様」
アイラさんは僕をギュッと抱きしめた。
「さて……」
「ひぃ」と、アークエンジェルに視線を向けられたセラはすくみ上がった。
ニコニコと笑顔を崩さないアークエンジェルの圧が逆に怖い。
「何か言い訳はありますか、セラフィム」
「う、うちは……! 天使と人間が結ばれるだなんて、そんなことは認められません!」
「それは当人たちが決めることです。他者をどうにかしようだなんて、そんなものは私たち天界の思い上がりだわ」
「人間の低俗な愛は、人間同士で享受し合えばいいんだ!」
「嘘つけよ。そんな崇高なお題目じゃないだろ」
姉が横から口を挟んだ。
「セラ、お前の個人的な感情に、私の家族を巻き込むな」
「だって……スゥが人間になんてなるから! 先にそっちがいなくなっちゃうのがいけないんじゃないかッ! あれからうちがどんなに寂しかったか……!」
「やれやれ、反省してなさそうだなぁ」
わかった——と、姉はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「セラ、お前出禁な」
「は……?」
「私の作品読んだり、イベント来るのも禁止な」
「え? うそ……。いや、ちょっと、待って」
「ペナルティだ、当然だろ? アークエンジェル」
「はい」
「セラのやつ下天できなくして、私の作品も禁書認定で天界に持ち込めないようにしてほしいんだけど」
「そんな……い、いやだ……」
「まぁ……あなたの作品は天界でも大変人気ですのに。残念ですが、作者本人がそうおっしゃるなら、致し方ありませんわね」
「最終巻あとちょっとで脱稿するんだけど、まぁ、しょうがないよな」
「いやだあァァーッ! スゥの作品が読めなくなるなんて! う、うちは! うちはぁ……!」
セラはワンワンと声を上げて泣き始めてしまった。
「ふん……少しは圭とアイラっちの気持ちがわかったか」
「ダメだよ!」
気づくと、僕は声を張り上げていた。
「圭」
「セラさん、『ほしきみ』の読者なんだろ? 前のイベントだって来てたし、そんなに熱心にしてくれるファンをないがしろにするなんて。姉ちゃんに直接被害があったわけじゃないのに、そんなの……そんなのは間違ってる」
何を言ってるんだろう、僕は?
ポカンと場が妙な空気になったが、しばらくして姉がほくそ笑んだ。
「お前、セラのせいで酷い目にあったんじゃないのか? 顔だって腫れてるけど、許していいのかよ?」
「セラさん、姉ちゃんの大切な人なんだろ?」
「……だ、そうだ。毎回新刊積んでくれてる本屋の店長に言われちゃ、前言撤回するしかないな」
「へ? い、いいの?」
「代わりに、圭とアイラっちのこと、ちゃんと天使長として認めなよ」
「認める! いくらでも認めるから!」
「あと……ついでだけど、イベントとか顔隠さずに来いよな。あれじゃ話しかけられないだろ」
「うん! わかった!」
姉とリアは鉄柵を乗り越えて僕らの側まで滑ってきた。
「お姉様!」
「リア! よかった、無事だったのね!」
「へへ、頑丈だけが取り柄ですから!」
アイラさんはリアを深く抱き寄せた。
「圭様を助けてくれて、ありがとう」
リアの頬がポッと赤く染まる。
「大好きよ、リア」
「あたしもです、お姉様」
「たとえ離れても」
「はい」
「?」
どういうことだろう?
「うわぁ……派手に腫れてるな」
姉は茶化すように僕の頭を指先でツンツンとつついた。
「姉ちゃんってさ……」
「ん?」
「もしかして……おばあちゃんの生まれ変わりなの?」
ピンッとデコピンが飛んでくる。
「いてっ」
「ばぁーか、よく考えろ。ばあちゃん生きてる時に私はもう生まれてたんだぞ。セラっちが私にばあちゃん重ねてみてるから、あわせてるだけだよ」
本当だろうか?
たとえば、祖母が亡くなった時に姉が記憶を引き継いだ——とか、そういうことはないだろうか?
「ちなみに、どこが一番痛いんだ?」
「いたっ! ちょ、姉ちゃん!」
「次はバイオレンスなアクションもの書いてみよっかなと思っててさ。いい資料になるから教えてくれよ。ここか? ここがええのんか?」
いつもの無茶苦茶な姉だ。
祖母とつながりがあるとか、考えすぎかもしれない……。
「セブンス。……いえ、もうアイラと呼んだ方がいいわね」
「はい」
アイラさんはアークエンジェルの前に一歩歩み出た。
「天使長セラフィムの認可が下りました。これより最後の試練を施行します」
「最後の、試練……?」
言いようのない不安がよぎって、僕はアイラさんのそばに駆け寄った。
「どういうこと? これで終わりじゃないの?」
「圭様……」
アイラさんが辛そうな顔で僕を見る。
なぜか、心臓が早鐘を打ち始めた。
「私からお話ししましょう」
口を開こうとしたアイラさんを、アークエンジェルが制止した。
「これからアイラには、天使から人間になるための儀式を行います」
そうそう、とアークエンジェルが付け加える。
「ついでに、あなたもですよ、リア。あなたも愛を見つけたんですものね」
「はい! でも、それは、圭のおかげなんです。だから、どうか、お姉様と圭を……」
「それもまた、二人が決めなければならないこと。私たち天界は、運命には介入しません」
アイラさんとリアが人間になる。
二人がそれを望んでいるなら、いいことのような気がした。
だけど……。
「条件があるんですね?」
僕の問いかけに、アークエンジェルはゆっくりと目を伏せた。
「時を戻さなければなりません」
わかってた。
天使であるアイラさんとの時間が、このままずっと続くわけがないことは、わかっていたんだ。
ただ、考えないようにしてた。
「あなたたちが真に惹かれ合うなら、二人は再び出会うでしょう」
「もし出会わなければ?」
アークエンジェルはただ首を横に振った。
「お姉様を責めないであげて。言っちゃいけない決まりだったから……。それでも、お姉様は何度も圭に打ち明けようとしてたんだ。言ったら問答無用で圭の記憶が消されるから、あたしが止めてたけど」
「どのみち人間界の天使の痕跡は可能な限り消さなければなりません。過度な介入はせず、天界から見守るのが本来の私たちの使命なのですから」
でもね——と、アークエンジェルは慈悲の眼差しを僕に向けた。
「それでもアイラは、この愛の試練を受けることを私に直訴しました。ただあなたに会いたい一心で」
アイラさんは僕に向かって深く頭を下げた。
「私のわがままで、あなたの気持ちをもてあそぶようなことをして、本当にごめんなさい」
「そんなこと、言わないでよ。そんな気持ち、僕にはひとつもないから」
「圭様……」
「お願いだから、そんな他人行儀な言い方、しないでよ……」
「圭……」
「また、会えるよね?」
声が震えていた。
涙が顎を伝って地面にポタポタ落ちた。
ただ、怖かった。
六年前に出会った時からずっと、僕はアイラさんのことが好きだったから。
「あぁ、いやだなぁ……。こんなの……こんなのってないよ」
「会えます、絶対に! 絶対に、会えます、から…」
言いながら、アイラさんの声が淀み始めた。
「でも……ホントは……私だって、や、やだ……」
「アイラ……」
「もっと圭のそばに、い……いたい! イチャイチャしたい、し……いろんなとこ、ろ……一緒、に、い、いぎ、た、い!」
うわああぁーん! とアイラは子供のように声を上げた。
「あらあら」
その駄々っ子っぷりは、セラの比ではなかった。
リアや展望台の上の天使たちが唖然とした表情で見ているのもかまわず、アイラさんは喚くように泣き続けた。
姉だけが、ニヤッとうれしそうにほくそ笑んでいた。
「でも、もう、やなんだもん! わ、わだじだけ、おぼえ、でて……圭が、他の人……女、の、びと、と……いっじょになる、どころな、んて……見れ、ない……見だぐない」
「アイラ……」
「わがままで、い! いいもん! 圭と、ずっといっじょがいいんだもん!」
もう、無理だ。
我慢できなくって、僕は彼女を抱きすくめた。
「ありがとう、アイラ。充分、伝わったから」
「ふ、ぐ……! みゅ、む……ぶ、ゔ、ぅ……圭ぃ……!」
「あぁ、ちくしょう……こんなんで、ごめんね。カッコ悪くて、気の利いた台詞も言えなくて……顔だって、腫れて、て……最後、なのに……なんで、僕は、いつも、こんな……」
「そんなことない。そんなことないよ。だって、私にとっての天使が、圭なんだから」
「今度はさ、僕の部屋の本棚、二人の本でいっぱいにしよう。僕らの好きな本並べて、増やしていきたい」
「ゔん」
「いっぱい、話しよう。全然、話し足りないよ。アイラのことも知りたいし、僕のことも、いっぱい話したい」
「うん……」
「僕もアイラと、ずっと一緒にいたいって思ってるから」
「うん……!」
アークエンジェルは両手を大きく広げた。
「清らかな二人の魂に、神の加護を」
アイラとリアの体がわずかに浮き上がる。
二人の内側から真っ白な光が溢れ、包み込み始めた。
「じゃあ、またな、圭!」
「リアは、酒癖悪いの治すんだぞ?」
べぇー、とリアは舌を出した。
「圭」
別れの言葉を使いたくなかった。
でも、そんな心配は無用だった。
振り返った僕の唇を、アイラのくちづけが塞いだからだ。
「まぁ」
「むはっ」
キャ〜! と展望台の上の天使たちから黄色い悲鳴が上がった。
「圭……圭っ!」
アイラはもう一度、僕を深く強く抱きしめた。
頬が触れ合う。
彼女の指先が、僕の髪をやさしくまさぐる。
「アイラ」
どうしても、今、伝えなきゃいけない言葉がある。
それは、君の名前になった言葉。
「愛してる——」
アイラの宝石のような涙すら、光に呑み込まれていく。
「私も、愛してる」
彼女の感触を忘れないように。
アイラの背中に回した両手に力を込めた。
直後——。
アイラから溢れた光は僕の世界の全てを白く塗り潰した。
目を開けると、地面が目の前にあった。
冷たいタイル状の、これは——。
教室?
「い……てぇ……」
どうやら僕は、うつ伏せに倒れているようだった。
こめかみにズキズキと鈍い痛みが走っている。
「立木! てめぇッ!」
女子生徒の悲鳴が上がる。
振り返ると、怒り狂った仁志が立木拓真に殴りかかっていた。ほとんど一方的に痛めつけられている立木の足元には、T字型の箒が転がっている。
そうだ。
僕は仁志を庇ってあの箒で殴られたのだ。
「お前らぁッ! こんなところで喧嘩しやがってッ!」
生徒指導の先生の怒声が響くと、教室の混乱はさらに酷くなった。
僕は体を起こして、窓の外をぼんやりと見た。
グラウンドの向こう、低い空の下で、黄葉が風に揺れている。
高校三年生の秋だった。




