第57話
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『アイラああァァァーッ!』
モニターの向こう側、圭がその名を叫んだ瞬間、アイラの瞳から涙が溢れた。
「はい!」
両翼が美しくはためく。黒く澱んでいた翼は眩しいほどの純白を取り戻し、二人のヴァルキリーをたじろがせた。
「あり得ない……人間がうちの術を破るなんて。なぜ彼がスゥのペンを持ってるんだ!」
セラは忌々しそうにアイラを振り返った。
「けえぇぇーいッ!」
アイラは力づくで両腕の拘束具を引きちぎった。
「なに⁉︎」
アイラの全身から溢れた光が、放射状に闇夜を切り裂く。
「逃がすな!」
だが、二人のヴァルキリーは動かない。
「拒否します。二人の愛は本物です。求め合う者たちをこれ以上引き離すなど、我々天使の矜持に反する」
「く……ふざけるな!」
セラはアイラに向かって両手を伸ばした。
アイラが飛び立つよりも先に、天空から発生した光の柱がアイラを包み込む。
「やりたくはないが、強制的に天界へ送還してやる!」
「その物言い……やはりアークエンジェルの許可を得ていないのですね!」
「うるさい!」
アイラの体が上空へと引き上げられる。
「う、あぁ……!」
そこでアイラは驚くべき行動に出た。
右手を背中へ回して、左の翼を力任せに引きちぎったのである。
「な! 死にたいのか!」
天使の翼は有機的な物質ではない。
だから血が流れることはないが、彼女たちの翼は人間の心臓に等しい役割を持つ。
「ふ……う、ぅ……!」
片翼をなくしたことで、アイラは天使としての資格を半分喪失していた。光柱が彼女を吸い上げるスピードも当然落ちる。
「そんなことをしても……!」
だが、効果はあった。
展望台の下、居無井町の中心部から、それは重力に逆らいながら猛烈な勢いで近づいてきた。
「アイラああァァァーッ!!!」
自転車に跨った圭が、ヒーローのタイミングで現れた。
◯
アイオンの投擲は正確だった。
だが、それでも僕とリアを乗せた自転車は展望台からわずかに逸れていく。風に吹き飛ばされそうになるのを、僕はグリップを握り締めながら必死に耐えた。
「よし! 次、アンドレ!」
「イエス、シスター!」
「自転車は壊れたっていい!」
「エンダアぁぁ……!」
展望台の中央、光の柱の中にアイラさんがいるのが見えた。
六年前は間に合わなかったけど……!
「イヤアアああァァァーッ!」
ドゴギャッ!
アンドレが放った張り手の音を置き去りにして、強引に軌道を変えた自転車が光の柱目掛けて突進する。
「んぎ……ぎぎ……!」
「ふんばれ、圭!」
リアがドライブラインに細かい修正をかける。
アイラさんの姿が迫ってくる。
「させないよ」
光柱の脇にいた黄金の天使がこちらに向かって手をかざす。
「こっちにきて、いい言葉を覚えたよ」
「え?」
「人の恋路を邪魔する奴は……」
リアが僕から手を離して離脱した。
そのまま慣性の法則を利用して、高速で黄金の天使に向かっていく。
「馬に蹴られて死んじまええェェェーッ!」
「なにッ⁉︎」
リアと黄金の天使が激突する。
同じタイミングで、僕は光の柱の中へ突入した。
「圭様!」
「アイラさん!」
アイラさんを抱きかかえ、柱を突き抜ける。
僕とアイラさんは空中へ躍り出た。
——高い……!
自転車は雑木林の中へ突っ込んでいったが、僕らは展望台の向こう、クレーター側へと流れていた。
僕は咄嗟に、アイラさんの頭と腰を抱き寄せた。
「圭様ッ!」
アイラさんもまた、翼で僕を包み込む。
彼女の翼が片方しかないことを気にしている余裕はなかった。
「ぐ……ッ!」
無様に背中から着弾し、クレーターの斜面を転がり落ちる。
彼女を抱きすくめる手だけは絶対に離さない。
派手に転がりながら、中腹のあたりで僕らはようやく停止した。
「大丈夫ですか⁉︎」
体を起こしたアイラさんに、僕は跳ね起きながら抱きついた。
「ケガ! ケガ、ない⁉︎」
アイラさんの口からほっと小さくため息がもれる。
「ありません。圭様が庇ってくれたから」
「でも、翼が……」
「こんなの、圭様のケガに比べたら、大したことない」
もぅ……と、彼女は泣き出しそうな顔で口を尖らせた。
「こういう無茶なこと、やめてって言ったのに」
「ごめん……」
僕が謝ったのは、そのことではなかった。
「アイラのこと、忘れてた……。最低だ、僕は……」
「いいの」彼女の指先が、僕の頭をそっとなでる。
「いいの、そんなこと」
「セブンス!」
リアを振りほどいた黄金の天使が、展望台からこちらを見下ろしていた。
「よかったね、最後にカシワギケイに会えて」
「天使長……」
アイラさんは険しい顔で展望台を見上げた。
思い出した。
そうだ、彼女はセラという名前だ。
「どうせ結果は変わらないんだ。君とカシワギケイは……」
「私の弟がなんだってぇッ!」
突然馬鹿でかい声が響いた。
セラとリアが後ろを振り返り、僕らもその視線の先を追う。
「す……スゥ」
状況がまったくわからないけど、姉がそこに立っていた。リアに肩を貸しながら鉄柵の手前まで来ると、僕とアイラさんに向かって「よっ」と手を上げてくる。
「姉ちゃん!」
「凪様!」
「お空が光ってるから怪しいと思って来てみれば、楽しそうなことやってるじゃないか」
「スゥ……なんで、ここに」
セラは明らかに動揺していた。
そのセラを、姉は鋭い目つきで睨みつけた。
「私の大事な家族に……やってくれんじゃねぇーか、派手によぉ」
知り合い、なのか?
「だって、スゥが……スゥが悪いんじゃないか! うちを置いて行っちゃうから!」
姉は右手を頭上にかざすと、パチンと指を鳴らした。
一瞬だった。
姉の合図に合わせて、夜空に展望台全体を包み込むほど巨大な光球が出現した。
「ひ……」
セラは怯えたようにすくみ上がった。
巨大な光球は風船のようにさらに肥大化した後、激しく爆ぜた。
「私だけじゃラチがあかなさそうだったからな、ついでに呼んどいたぜ」
溢れ出た光が、眼下の居無井町を真昼のように照らす。
その光源の中心にいたのは、女神のように神々しい天使だった。
ただ。
「でかッ!」
僕は思わず叫んでしまった。
「大天使長」
「久しぶりですね、セブンス」
大天使長——アークエンジェルは、アイラさんに向かってにっこりと微笑んだ。




