第56話
「どうして?」
僕を見上げながら、美琴は言った。
「どうして、そんなに辛そうな顔してるの?」
僕は美琴の顔の脇に両手をついたまま、それ以上動かなかった。
泣き出しそうな顔をしていることが、自分でもわかる。
「ごめん」
「あやまんないでよ。お腹、痛い? 体調悪い?」
「思い出がないんだ」
「どういう意味?」
「君との思い出が、どうしても思い出せない」
「なに……言ってるの? いっぱいあるじゃない。いっぱいデートしたし、旅行だって行ったし、いっつも手つないで、キスしてくれたじゃない」
違うと思う。
その記憶は、正樹という主人公のものだ。僕じゃない。
起き上がって、本棚へ近づく。僕はもう、美琴のことを見ていなかった。
本棚の端に並べられたそれを、そっと引き抜く。
それは、古い原稿用紙の束だった。
谷折りにされた何百枚もの原稿用紙が貼り合わされ、分厚い本の体をなしている。
〝圭様のお願いでも、これだけは聞けません〟
彼女がやったのだ。大変だからやめようと僕は何度も言ったけど、彼女は頑として譲らなかった。
〝だって、これは——〟
二度と捨てられないよう、彼女は何日もかけて糊で貼り合わせ、本の形にした。
〝私と圭様の、大切な思い出だから〟
世界が開けた気がした。
僕らはいつも、肩を並べて本を読んでいた。
コロコロ変わる彼女の表情。
彼女の輪郭が、仕草が、声が、笑顔が——鮮やかに甦ってくる。
「『ほしきみ』は知ってるよね?」
振り返らず、僕は言った。
「え? うん、圭ちゃんが好きな小説でしょ?」
〝とても素敵な物語です〟
「じゃあ、未来からのホットラインは?」
「知らない、けど……」
〝えすえふって、なんですか?〟
〝余韻が抜けません。難しいお話なのに、最後の一文がこんなに素敵だなんて〟
「斜め屋敷の犯罪、戻り川心中は?」
〝とりっくと言うのですね! 館の見取り図から騙されてたなんて、凄いです! 天才です!〟
「コミックはどう? 君に届け、恋は雨上がりのように、天官賜福」
〝はぅ……あんまり早くくっついちゃうと、おつきあいしてからの方が怖いですね。恋とはかくも難しいもの〟
「剣客商売、ロードス島戦記は?」
〝ふぇ……ぇ……異種族間の恋愛がこんなに悲しいなんて……〟
〝圭様とお話ししていると、胸の奥がぽかぽかします〟
〝むひゅひゅひゅひゅ〟
〝心配したもん……! いきな、り……たおれ、るから!〟
「夜は短し歩けよ乙女、義妹生活、レインツリーの国」
〝覚えました! おともだちパンチ!〟
〝私の方が……圭様のこと好きだもん。六年間ずっと想ってたもん……!〟
「ベルプペーのスパダリ婚約、フォーチュン・クエスト」
〝私も圭様のスパダリになりたい。あれ? スーパーハニー? スパハニでいいのでしょうか?〟
「ノンフィクションは? エンデュアランス号漂流記、ある奴隷少女に起こった出来事とか」
〝私だって、圭様への想いと写真があれば、南極からでも生還できますから!〟
〝私、怒ってます〟
〝これは名作です。まだまだ知らないものがたくさんありますね!〟
「スレイヤーズ、ブギーポップは笑わない、ダンまち、魔女と傭兵、オルクセン王国史……。いくらでも、いくらでもあるんだ」
「そんなに言われても、わかんないよ」
「そうだよね。それが普通だと思う。でも、彼女は……読みたいって言ってくれたんだ。僕と一緒に、いろんな物語を読んでみたいって」
気づくと、僕は泣いていた。涙がぽたぽたと床の上に落ちた。
「君は誰? お願いだから、彼女を返して。彼女がいない人生なんて、僕はもう耐えられない」
美琴の顔がぐにゃりと歪んだ。
直後。
世界にガラスのような亀裂が走った。
「圭ッ!」
ハッとなって目を開ける。
赤髪の女の子が僕の両肩に手を置いて叫んでいた。
彼女の後ろには二体の白い彫像のような巨人がいる。
「あ……ぇ……?」
「あぁ、よかった! あたしのことわかるか、圭⁉︎」
頭が重たい。
夜だ。
自分の部屋……本棚にもたれ掛かっているらしい。
メガネが床に落ちていて、視界がぼやける。
「リ……ぁ……?」
「そうだ! そうだよ、圭!」
一番大切な人だけがいない。一番会いたい人だけが。
そんな気がする。
「美琴、は……?」
赤毛の女の子が辛そうに眉根を寄せた。
「くそ! まだダメだ! どうすりゃいいんだよ⁉︎」
僕の大切な人。
幼馴染みで、いつも元気な……。
——違う。
僕の好きな人は、真面目で、みんなにやさしくて、世間知らずで、読んだ本の感想を楽しそうに教えてくれる——。
僕の天使。
「あ! あぁ……!」
頭を覆うように何かがへばりついていた。
それは自分の内側から育ったものだということが感覚でわかった。
ブニブニとした白い球体に、小さな羽と唇だけが不気味に生えている。
その口が美琴の声で言葉を発して、僕はゾッとした。
「圭ちゃんにはぁ! 私がずっと一緒にいてあげるからぁ……!」
意識が飛びそうになる。
得体の知れない世界に再び引き摺り込まれる。
「ダメだ、圭! くそ、食い込みすぎてるから!」
僕はよろよろと立ち上がって仕事机の上に手を伸ばした。
姉の万年筆を握り締める。
書け——と誰が言った。
そうささやいたのは、姉のようでも、祖母のようでもあった。
「あ、い……」
僕は無我夢中で中空にペンを走らせた。
「アイラああァァァーッ!」
刹那。
姉の万年筆から光が溢れ出た。
その閃光は部屋中を埋め尽くし、白い球体の頭の締めつけを弛緩させた。
「うわああァァァーッ!」
白い球体を鷲掴みにして、僕は目一杯引っ張った。
「圭!」
「く、そ……!」
「いやだょおぉぉぉ! 圭ちゃああぁぁーんッ!」
後少しなのに、剥がれない。
これが天界の何かなら、人間の僕では力が足りない。
「アンドレ!」
僕は叫んだ。
意図を察したアンドレが激しく首を横に振る。
「ノー……ノー、ブラザー!」
「いいんだ……頼む、アンドレ!」
「ブラザァァーッ!」
アンドレは泣きながら振り上げた拳を僕の顔面に叩きつけた。
鈍い音が頭の中で跳ね回る。
喧嘩に巻き込まれた時の比じゃない。激痛で意識が飛びそうになる。
だが、その衝撃で白い球体はたまらず僕の頭部から分離した。
「セイバー!」
リアが空間から出現させた剣で白い球体を十字に斬り刻んだ。
「アイオン!」
「ゲッタァァ……!」
カッ! と、アイオンの両目からビームが迸る。
「ビイイィィィームッ!」
二筋の白い炎が窓ガラスを轟音と共に粉砕し、突き抜けた後、球体はこの世界から姿を消していた。
「はぁ……はぁ……」
とても立っていられなかった。
僕は床に倒れ込んだ。
「圭! ばかやろう、無茶しやがって!」
「喋り方が……仁志に似てきたな……」
「ふざけてる場合か、バカ!」
口中に血の味が広がる。
痛みを通り越して、目から上の感覚がない。
「よく、わからないけど……なにかされたんだな、僕は……」
「うん」
「アイラさんが、ピンチなんだな?」
「ごめん……あたしが足手まといだったせいで、お姉様は、捕まってる」
僕は震える手で床のメガネをかけた。
割れた窓の外、暗い闇の向こう側で、眩い光が膨らんだのが見える。
大竹山の山頂、展望台のあたりだ。
「みんな、手を貸してほしい」
「当たり前だッ!」
リアに肩を貸してもらい立ち上がったところで、母が部屋に飛び込んできた。
「凄い音したけど、何があったの⁉︎」
「ごめん、母さん!」
「えぇ⁉︎ なに、これ!」
「後で全部説明するから!」
部屋の惨状とアンドレたちに目を丸くしている母を脇に避け、僕らは階段を下りて外に急いだ。
ふらふらになりながら、車庫から自転車を引っ張り出す。
「行こう、リア」
「お前、何を……」
「飛べるだろ? 天使なんだから」
僕がサドルに跨ると、リアは頷いて僕の肩へ手を置いた。




