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第55話


   〇


 幾何学模様の世界の中心に、姉がいた。

 いや、それが姉ではないらしいと気づいたのは、名前が違ったからだ。

『こら、セラ。お前はここに来ちゃダメだろう』

 それは彼方の記憶の欠片。

『いいじゃないか。スゥがいつも無茶するから、うちは心配なんだよ』

『その呼び方も。また怒られるぞ』

『セブンスなんて名前の方が、うちはいやだね』

 セラと呼ばれたその女性はスゥの腕に両手を絡めると、彼女の肩に頭を預けた。


『すまない、セラ』

 戸惑うセラに向かって、スゥは言った。

『なぜなんだ?』

『愛を見つけた』

『愛? 人のあれは、愛じゃない。スゥ、君は理解していると思っていたのに』

 言いながら、セラは自分の中の矛盾に気づいていた。

 スゥが自分のものになる可能性はない。それはこれまでの二人の日々でよくわかっていた。

『彼のそばにいたいんだ』

 違う。

 君にそばにいてほしいのは、私の方なんだ。


 スゥがいなくなった後、セラは無断で人間界に下天したことがある。

 声をかけることはできない。スゥがこちらを認識することもないだろう。

 それでも、セラは彼女にもう一度会いたかった。

 古い町並みの中にスゥを見つけた時、セラは歓喜し——絶望した。

 スゥのお腹は大きく、人の子を宿していた。愛しむようにお腹に手を添えている。

 あんなに幸せそうなスゥの笑顔を、セラは見たことがなかった。


『おらああァァァーッ! お姉様ほったらかして呑気に寝てんじゃねええェェェーッ!』

「どわぁッ⁉︎」

 耳元で誰かに怒鳴られた気がして、僕はビョンと勢いよく布団から上体を起こした。

「ん……? あれ?」

 目を擦って部屋を見渡してみるが、自分以外には誰もいない。

「なんか、すごく懐かしい声だった気がするんだ」

「ふーん」

 美琴は卵を割り入れたフライパンにフタをしながら、気のない返事をした。

 二人でする朝食の準備。

 いつもなら両親も含めた四人分のトーストと目玉焼きを用意するんだけど、今日は僕と美琴の分だけだ。手術後の父の定期検診に母が付き添い、二人とも今朝から家を空けている。

「それって、女の人の声だったの?」

「うん、まぁ。やたらと元気な女の子だったな」

 美琴は僕のほっぺたをむんずとつかむと、グリグリと力いっぱい引っ張った。

「! いたたたたッ!」

「こぉーんなかわいい彼女がご飯作ってあげてるのに、朝っぱらから楽しそうな話してくれるじゃないの」

「ごめんごめんッ! そんなつもりじゃないだってば!」

 もぉ……と、美琴は僕の頬に手を添えた。

「今夜は……二人だけなんだからね」

 僕が唾を飲み込むと、美琴は恥ずかしそうに目線を逸らした。

 そうだった。

 今夜初めて、僕らは「そういうこと」をしようと約束していたのだ。

 朝食を済ませてから、部屋に戻ってワイシャツに着替える。

 住み慣れた部屋。

 お気に入りの本だけは本棚にきちんと整列されていて、それ以外の本は床の上へ乱雑に積み上げてある。

 いわゆる積読と呼ばれる状態だけど、僕はそこに妙な違和感を覚えた。

 ここにあるのは、全て僕の本だ。だけど、何かが足りない。

 本だけじゃない。

 本棚にしても、本以外の何かが欠けている気がする。

「……?」

 その本棚の端に、見覚えのない本があった。

 背表紙がなく、カバーもない。

「なんだっけ、これ……?」

「圭ちゃ〜ん! そろそろ出ないと開場間に合わないよ〜!」

 一階から美琴の声が響いて、僕は伸ばしていた手を引っ込めた。


 閉店後に春の旅行書フェアの入れ替えをしていたせいで、帰宅したのは夜の十時頃だった。

 疲労感はあるが、苦ではない。ここのところ、売上も客数も好調だからだろう。

 家に帰れば、幼馴染みの彼女が出迎えてくれる。これ以上の幸福があるだろうか。

「ただいまぁー」

「おかえり、圭ちゃん!」

 パタパタとスリッパの音を響かせて台所から顔を出した美琴を見た瞬間、僕は「ぶッ!」と吹き出しながら悶絶した。

 美琴の格好が、裸にエプロンを付けただけの破廉恥極まりないものだったからである。

「おまっ! なに考えてるんだよッ⁉︎」

「へへー。圭ちゃん好きでしょ、こういう格好? 一回やってみたかったんだよね」

 よろめく僕の背中に両手を回して、美琴が豊かな胸を押しつけてくる。

 ふらついた僕は、思わず彼女のお尻を両手で鷲掴みにしてしまった。

「あ……圭ちゃん」

 やわらかすぎる。

 というより。

 ——本当に何も穿いてない……!

「先にお風呂にする? ご飯にする? それとも……」

 美琴は僕の首筋へ舐めるようなキスをした。

 僕の呼吸がピクンと跳ねる。

「汗くさい、から……」

「いいよ、そんなの……」

 顔を上げた美琴の唇が近づいてくる。

 ダメだ——と、どこかで声がした気がしたけど、両目を閉じた僕には届かなかった。

 その時。

「ワンッ!」

 僕は玄関の方へ顔を向けた。

「圭ちゃん?」

「犬……」

「野良犬じゃない?」

 ニャアン、と鳴き声が続く。

「ほら、猫も」

 どこか、懐かしい気がした。

 僕は靴を履き直して玄関のドアを開けた。

 でも、そこには軒先の電灯の奥に夜の闇が広がっているだけで、犬も猫もいなかった。

「圭ちゃん、誰かに見られたら恥ずかしいよぉ〜」

「あっ、と……ごめん」

 そうだった。美琴は今、裸にエプロンだったのだ。

「いたの、犬と猫?」

「いなかった。ウェルシュ・コーギーとスコティッシュフィールドだと思ったんだけど」

「なんで種類まで?」

「? ホントだ……なんでだろう」

「疲れてるんじゃない? 先にお風呂入っておいでよ」

 手早くシャワーを浴びた後、夕食は美琴が作ってくれた唐揚げを二人で食べた。

 裸にエプロンで揚げ物は危ないよと心配したら、また抱きつかれて下半身が大変なことになった。

 それから——。

 お風呂を済ませた美琴が、今、僕の部屋にいる。

 敷布団の上で向かい合ったまま、彼女は僕をじっと見つめている。

「ホントに、いいのか?」

「だめなの?」

 ブンブンと首を横に振る。

 美琴は恥ずかしそうにはにかむと、僕の右手を自分の胸元へ導いた。

 ふに、とやわらかな感触が、指先から全身を駆け巡る。

「私は全部、圭ちゃんのものだから。好きにしていいんだよ?」

 ドクン、と心臓が跳ねて。

 僕は美琴を敷布団の上に組み敷いた。

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