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第53話


    ◯


 白い。

 果てなく広がる純白の空間。

 拷問だな——と、アイラは皮肉めいた思いを抱いた。

 この世界には色がない。凪ぐように穏やかでいられる代わりに、悦びや哀しみもない世界だ。

 圭に出会わなければ、そんなことに気づくこともなかっただろう。

「うへぇ」

 リアはアイラの隣でだらしなく舌を出した。アイラの翼は凛々しく開いているが、リアの両翼はしょぼくれたように下を向いている。

 天使の正装である白のローブも含めて、リアは天界の堅苦しい雰囲気が苦手なのだろう。

「なんでこんな場所で報告なんでしょうね」

「そうね」

「早く帰って晩御飯食べたい」

 ふふっとアイラは微笑む。

「そうね。みんなで食べるとおいしいものね」

 その時、重たい気配を察知して二人は姿勢を正した。

《静粛に。神事だ》

「は!」

 姿は見えない。

 だが、声の主——天使長セラフィムの存在は確かに二人を見下ろす位置にあった。

 そして、アイラはそれ以外の気配も同時に感じ取っていた。

 ——囲まれている……。

《任務ご苦労だった、セブンス》

 セブンス。

 今ではもう、意味のない名前だ。いや、以前からその名称に意味などなかった。

《リアからの報告は受けている。対象者……カシワギケイとの関係も良好なようだね》

 リアは恭しく頭を下げたまま、微動だにしなかった。

 天使長を前に、緊張しているのだ。

《試練に出ていた天使たちは皆帰還している。君が最後だよ、セブンス》

「はい」

《君の報告には興味がある。人間の愛を観察するのではなく、自らが人間を愛した。愛するために、君はヴァルキリーからの転属を願い出た》

「誰かを愛するという行為は、尊く、素晴らしいものでした。私はずっと、それを知りませんでした」

《時に同族すら手にかける人間に、愛を語る資格があると思う?》

「はい。彼のことを考えると、勇気が湧きます。生きる活力が漲るのです。我々天使が与える無償の愛も素晴らしいものですが、人の愛もまた、美しいものだと私は思います」

《君はカシワギケイと、添い遂げたいと思うかい?》

「はい」

《彼との子を成したい?》

「それが許されるのなら」

 アイラは深く頭を下げた。

 言うべきことは話した。あとは承認さえ得られれば、アークエンジェルの儀を受けるだけだ。

 帰ったら、圭にあのことを話さなければならない。

 彼は私たちを、許してくれるだろうか?

《そうか……。人を……彼を、愛しているんだね。心の底から》

「はい」

《君の口から直接聞くまではと思っていたんだけど……残念だよ、セブンス》

「ッ!」

 殺気を感じて、アイラとリアは同時に飛び退いた。

 先ほどまで二人が直立していた場所に長剣の一太刀が突き刺さる。

 白い空間から姿を見せたヴァルキリーの集団が、二人を取り囲んでいた。

 数は十人。全員剣とホーリーメイルで武装している。

 これは、アルマゲドン用の装備だ。

「ヤバ……こいつらみんな、ヴァルキリーの精鋭たちですよ、お姉様!」

「どういうことです、天使長⁉︎」

《わからないのかい? 世俗の情欲にほだされて、判断力まで低下しているとみえるね》

 二人の真正面の空間から、天使長セラフィムがその姿を現した。

 黄金の天使。黄金色の長髪とどこまでも澄んだ眼に、天使であるアイラとリアも思わず目を奪われそうになる。

「愛の試練とは、人間の査察であると同時に、堕落した天使を見つけるための試験でもあるのさ」

 堕落、とセラフィムが口にしたことで、アイラは全てを理解した。

「リア!」

「く……!」

 両サイドからヴァルキリーが斬りかかってくる。

「セイバー」

「セイバー!」

 具現化した刃で、アイラとリアはそれぞれが相対するヴァルキリーと斬り結んだ。

 アイラは相手を横殴りの一閃で弾き飛ばし、リアはわずかに押し込まれる。

「しゃがみなさい」

「は、はい!」

「がはッ!」

 時計回りに捻転を効かせたアイラの斬撃が、リアが対峙していたヴァルキリーを数メートルほど吹き飛ばし、激しく横転させた。

「さすがだね。長らく欠番になっていたセブンスの名を受け継いだだけのことはある」

「ど、どどどうしよう、お姉様! ナンバーズも混じってますよ⁉︎」

「く……」

 数が多すぎる。

 リアを庇いながらでは対処できない。

「すごいね。こんなに必死な君は見るのは初めてだ。やはり人間の愛は天使をも狂わせるらしい」

「そんなことはありません!」

「あるね。現に君だけでなく、監察官であるはずのリアまで感化され、人間に情を抱いているだろう? ウィルスなんだよ。感染源は隔離し、毒から浄化しなければならない」

 本来は隔絶され、互いの接触はタブーとされる天界と人間界。そのラインを超えようとする天使を見極め、罰を与えるための試練だというのか。

「他者を慈しむ気持ちが毒などと! アークエンジェルはこの事を承知しているのですか!」

「認めていなければ、ヴァルキリーの動員なんてできるわけないじゃないか」

 ヒュ——と音が流れた。

 リアや他のヴァルキリーがそれを耳にした時にはもう、アイラはセラフィムの足元に体を沈み込ませていた。

「御免——」

 峰打ちで意識を断つ。直接アークエンジェルに確認しなければならない。

「いいのかい? こんなところでグズグズしていて」

「なに?」

 セラフィムは手の平に何かを出現させた。

 歪な球体に、小さな天使の翼が生えたそれを目にした瞬間、アイラとリアの体が硬直する。

 イービルブリス。

 それは、天界で罪者に自白させる際に用いられる禁忌のアイテム。

「彼は今頃、いい夢を見ているだろうね」

「まさか、圭に使ったのか! 人間なんだぞ!」

「彼は数年前に我々の術式を自力で破っている。セブンスのことを忘れなかった。妥当な処置だと判断する」

 セラフィムの両目が大きく見開かれた。

 アイラが放った殺意が、天使長を一歩後退させた。

 ヴァルキリーだった頃の彼女なら、純白の空間を一瞬で赤く染め上げ、終わっていただろう。

〝帰ってきたら、みんなでベビーカステラを作りましょう〟

 圭の声が、鮮やかに蘇る。

 鋭い一瞥だけを残して、アイラは翻った。

「どきなさいッ!」

 リアの周囲を固めていたヴァルキリーが、アイラの一撃で吹き飛ばされていく。そのうち二人は、真正面からアイラの攻撃を受け流し、あるいは踏みとどまった。

「リア」

「は、はい!」

「先に行きなさい」

「え⁉︎ でも、お姉様を置いてなんていけません!」

「お願い。圭様を、リア!」

「……わかりました!」

「アンドレ! あなたもよ」

「イエス、シスター!」

 リアと白い二体の巨人が白塵に紛れて消える。

 アイラは構えを維持したまま、セラフィムたちと向かい合った。

「健気だね。自己犠牲の精神……それこそ天使の愛に相応しい」

「押し通ります」

「逃げきれるかな? うちのエリアから」

 アイラは迎撃態勢をとった。

 残るヴァルキリーの背後から、白い巨人が一斉に姿を現した。


 数時間後——。

 アイラは走っていた。

 流血こそしていないが、ダメージが大きい。

 リアは無事だろうか?

 これからどうすればいいのだろう。逃走したのはいいが、セラフィムの言う通り、天界の追跡から逃げ切れるとは思えない。

 圭に会いたかった。

 会って、名前を呼んでほしい。

 抱きしめてほしい。

「はぁ……はぁ……」

 ため池に咲いた山桜から、花びらが舞っている。

 柏木書店の軒先に、アイラは圭を見つけた。

「圭様!」

 気づいた圭が振り返る。

 アイラが大好きな、ほがらかでやさしい笑顔。

 ——よかった。

 間に合ったのだ。

 次の瞬間、アイラの双眸は絶望に大きく見開かれた。

 圭が見ているのは、自分ではなかった。

「時間かかったね。忘れ物か、美琴」

 アイラの脇をすり抜けて、その女性は圭に勢いよく抱きついた。

 ——あ……あ……。

 声が出ない。

 アイラの体から色が抜けていく。実体を失なっていく。

「ごめんね、売場の手直ししてたら、手間どっちゃった」

 美琴と呼ばれたその女性は、圭に抱きついたまま、キスをした。

「こら、外ではダメだって」

「だって、我慢できないんだもん」

 少し顔を逸らした圭の唇を、美琴はもう一度強引に奪う。

 しばらく圭はされるがままにしていたが、やがて美琴の腰に両手を回して、くちづけを味わうように目を閉じた。

 ——いや……やだ……。

 その笑顔は、私のもの。

 彼の表情も、二人の時間も、唇も、全部、私のものなのに……!

 アイラの翼は、根元を残してドス黒く変色した。

「あのなぁ、甲斐田さんたちに見られたらどうするんだよ」

「へへー。このために毎日お仕事がんばってるんだよね♪」

「まったく」

 二人はアイラに背を向けると、手をつないで歩き始めた。

「なんか、機嫌良さそうだね」

「だって、今日は帰ったらデザートにベビーカステラ作ってくれるんでしょ? アイスたっぷりかけてさ、いっぱいあーんしてあげるからっ」

「だから、母さんたちに見られたらどうするんだよ」

「いや?」

「う……まぁ、いいけど」

 その瞬間、アイラの心は折れた。

「う……ぁ……あぁ!」

 アイラの慟哭に気づくことなく、二人は遠ざかっていく。

 ここにはいられない。

 とめどなく溢れる涙を残して、アイラは圭の世界から消滅した。

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