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第50話

 僕と仁志はカウンター席に並んで座っていた。

 夕方までの中休み。

 アイラさんとリアには先に帰ってもらったから、薄暗い店内には僕と仁志しかいなかった。

「悪かったな、巻き込んじまって」

「いや、まぁ、僕が勝手に飛び出したんだし……」

 今頃になって、殴られた頬がヒリヒリと痛んだ。眼鏡が歪まなかったのが不幸中の幸いだ。

「藤井さん、よく来てたの?」

「去年の夏くらいからな。アイラさんの歓迎会で詩織さんも来た時は、正直焦ったよ」

 僕らはしばらく、静かに湯呑の緑茶をズルズルと啜っていた。お酒が飲めればよかったんだけど、仁志は夜からも仕事がある。

「仁志と藤井さんが浮気してるって……そんな噂どこから出たのかな?」

 僕は疑問に思っていたことを口にした。

「多分、俺に頻繁に相談しに行ってるって、詩織さんが自分から旦那さんに言ったんだと思うぜ」

「えぇ!?」

「嫉妬してほしかったんじゃねぇの? それくらい、あの優男のことが好きなんだろ」

 仁志とのつきあいは長い。それ以上深く訊くつもりはなかった。

 仁志だって、好きだったんだろう。

 でも、仁志は厨房の中から藤井さんのことを見るだけに留めた。その距離を守った。

 それだけのことで終わらせた方がいい——と、仁志は思っている。

「リアには悪いことしたな」

「やっぱり気づいてたのか」

「お前と一緒で、俺はモテねぇーんだぞ。あんな美人な子に一緒に働きたいまで言われて、気づかねぇわけねぇーだろ」

「仁志だから、おせっかいで言うけど……リアじゃダメなの?」

「ダメだろ、そりゃ」

「なんでだよ」

「あの子が悪いんじゃなくて、俺の方がダメだろうが。他の人にうつつ抜かしてた奴が、詩織さんがダメだったからリアでいいやなんて、これ以上失礼なことあるかよ」

「それでもいいっていう人だっているよ」

「な……」

「笑ったり、怒ったり、泣いたりさ……そういうのが、ゆっくり、少しずつでいいから、自分の方に向いてくれればいいって思う。そういう好きだってあるよ」

「ねぇよ、そんなもん」

「ある」

「圭、お前な」

「だって、仁志がそうだったんだろ。藤井さんに対して、そういう気持ちだったんだろ?」

 ひとつ、大きな間があった。

「お前……たまに小説みたいにクサい台詞吐く時あるよな」

「当たり前だろ。本屋の店長だぞ」

 また二人で、緑茶をズルズルと啜る。

 はぁ……と、仁志は大きく息を吐き出した。

「今度さ、久しぶりに二人でゆっくり酒飲もうぜ」

 仁志はやっといつもの調子でニヤッと笑った。


 寒さも和らぎ、眠気を誘うあたたかな風が吹き始めた午後。

「引きませんね、腫れ」

「歯が折れたりはしてないですけど」

 いててて、と僕が声を上げてしまい、アイラさんは右手を引っ込めた。

「ああいうの、もうやめてください。私、心配です」

「すいません。仁志って喧嘩っ早いから、手を出してしまうんじゃないかと思って」

 アイラさんは、僕の腫れていない左のほっぺたにキスをした。

「無茶しないって約束してくれたら、もっといいおまじないしてあげます」

 アイラさんの上目遣いと吐息が、僕の首筋をくすぐる。

 う……。

 このやり方は卑怯だ。

「善処します」

「もう……」

 アイラさんが僕の腰に両手を回して、僕らは唇を重ねた。

 お互いの息遣いを呑み込み、何度も交換しあう。ひとつ結びつく度、アイラさんの目尻が甘えたように下がっていく。

 先に角度をつけたのはアイラさんで、先に舌を絡めたのは僕だった。

「ちゅ……ん……」

「ふぁ……圭……」

 キスの位置を徐々に下げていく。

「少し、だけ……」

「はい……」

 彼女の華奢なうなじへ舌を這わせる。

 玄関のドアがもの凄い勢いで開く音がしたのは、その時だった。

「……⁉︎」

 今度は凄まじい勢いで、扉が閉まる。

 露出したアイラさんの肩口のシャツを整え、リビングから顔を出すと、玄関にリアが立ち尽くしていた。嗚咽をもらして、泣きじゃくりながら。

「リア⁉︎」

「どうしたのですか⁉︎」

 駆け寄ったアイラさんと僕の手を取ると、リアは鼻水がぶら下がった顔を上げた。

「ひどじが……びどしがね……!」

「仁志に何か言われたのか⁉︎」

「じおりざんのこど、ふっぎれる、まで、時間、かがるかもじんないけど……」

「うん」

「ぞれまで、ぜ、絶対、で……手出ざないが、ら……ごんど、ぶたりで、出かげようって……で、デートじよって、言ってぐれた」

 びえぇぇーん! とリアは泣いた。

 僕とアイラさんは顔を見合わせて、同時にクスリと微笑んだ。

「リア……」

 抱き寄せようとしたアイラさんの脇をすり抜けて、リアは僕の胸にしがみついた。

「まぁ」

「リア⁉︎」

 珍しいこともあるもんだ……と思っていたら、リアは僕のシャツに顔を擦りつけて涙を拭いた後、そのまま鼻を思い切りかんだ。「ビィーム!」と音が聴こえてきそうな勢いだった。

「う……」

「はぁ……スッキリしたぁ」

 顔を上げたリアは、彼女らしい快活な笑顔でほくそ笑んだ。

「あんがと、圭」

「……いい性格してるよ、お前」

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