第5話
そして話は冒頭へと戻り——。
肌寒い一月の朝。
狭い布団の上で、僕とアイラさんは裸のまま向かい合っていた。
「まさか……」
混乱する頭で、昨夜のことを思い返す。
顔と腰のあたりに感じたあの異様なやわらかさ。
思う存分、顔を埋めて触りたくってしまったあの感触は。
——夢じゃなかったのか⁉︎
伸ばした背中の羽もそのままに、アイラさんはうっとりした表情で僕を見据えていた。
「面接でお伝えした通りです。盟約に基づき、私は圭様の伴侶となりました。愛について、私は学ばなければなりません」
「⁉︎?⁉︎」
アイラさんの言っていることが全く頭に入ってこない。
二人とも裸でひとつの布団の中に入っていて、アイラさんの背中には天使の翼が生え、僕の目の前にはたわわに実ったおっぱいがふたつ。
ダメだ、情報量が多すぎる!
「昨夜は机で寝ていらっしゃったので、寝床まで運ばせていただきました」
「それでなんで全裸なんですか!」
「『星降る夜と君の詩』には、愛し合う男女は生まれたままの姿で抱き合うものだとありましたので、それを実践させていただきました」
そこでアイラさんは、頬を赤らめながらそっと目を伏せた。
「そんなに見られると、恥ずかしいです……」
「う……あ……!」
僕は慌てて、かわいらしい桜色のふたつの頂きから目線を逸らした。
本の内容をそのまま実践した⁉︎
確かに、彼女が読み始めた『星降る夜と君の詩』には、一巻から早々にヒロインが主人公へ夜這いをかけるシーンがある。
——だからって、それをそのままやるものなのか⁉︎
「あのッ!」
僕は壁際のカラーボックスからワイシャツと黒のスラックスをひったくると、アイラさんに背を向けて猛スピードで着替えた。
「先に出ますからッ! アイラさんはちゃんと朝ご飯食べてから出勤してくださいッ!」
「あ……」
机のメガネとスマホを鷲掴みにし、手を伸ばすアイラさんを振り切って廊下へ飛び出す。転がるように階段を駆け下りる。
「どうしたの? そんなに急いで?」
リビングから母さんが顔を出した。
「開場してくる! アイラさんの朝食お願い!」
僕がようやく落ち着いたのは、自宅からダッシュして店の搬入口に着いた時だった。
「はぁ……はぁ……」
高校の体育祭でも出したことがないようなスピードで走ってしまった。
「なんなんだよ……」
時間を確認しようとスマホの画面を立ち上げて、僕は姉からメッセージが届いていることに気がついた。
《言い忘れたけど、アイラっちはこっちの世界のことをほとんど何も知らないからな。お前に会うために、天界で日本語だけは猛勉強したんだそうだ》
だから、なんで僕に会うためなんだ?
それ以前に、天界だの天使だのを信じてしまっている自分に驚く。あの翼を見ていなければ、エキセントリックな姉とその変人が連れてきた不思議美人の妄想で片付けていただろう。
《百年に一度の試練らしいぞ。人間界でパートナーを見つけ、人間が正しく愛を行使できているかどうか、その答えを天界に持ち帰らないといけないらしい。愛だの恋だの、あたしにはさっぱりだが、うちの売場の本ならそれっぽい答えが書かれたものがたくさんあるだろ。真面目でいい子だから、良質な本を教えてやってほしいんだ。お前なら、小説でも哲学の本でも、名著をお薦めできるだろうし》
う……と僕は言葉に詰まった。
もうすでに、ラノベを熱心に読み込んで間違った方向に突っ走っちゃってます、お姉ちゃん。
《あと、これも伝え忘れてたんだけど、人間の愛がそのアークエンジェル? とやらに「ふしだら」と判断された場合、堕落の烙印として人間界はメギドの火によって滅ぼされるらしいんだが……これはまぁ天使流のジョークだよ、多分。それに、真面目なお前なら大丈夫って信じてるから、お姉ちゃんは!》
「は……?」
さらっと恐ろしいことが書いてある。
アイラさんに正しい愛の形を伝えられないと、世界が滅ぶ……?
〝あの……凪様から、わたしのことはどのように聞いておられますでしょうか?〟
面接の最後、アイラさんの台詞を思い出して、僕は戦慄した。
あれは、そういうことなのか?
人間の代表として、試練に挑むことを了承しますかという問いかけだったのか?
〝事情は聞いてますよ〟
〝わたしと契約していただけますか?〟
〝そうですね。では、採用ということで〟
なんてことだ。
めちゃくちゃ軽く快諾しちゃってた……。
《世界の命運はお前に託したぜ! ……なぁーんてな。ほんじゃまぁ、また春の新学期シーズンになったら大学に顔出さなきゃいけないから、日本に帰るなりよ〜》
可愛らしいうさぎのキャラがてへぺろしているスタンプが添えられていて、僕は絶句した。
最悪だ。
姉ちゃんのやろう、どこでアイラさんと出会ったのか知らないが、厄介な案件を全部弟に丸投げしやがった!
「えーと……おはようございます」
とりあえずバックヤードで本日発売の雑誌とコミックの開荷を済ませた僕は、カウンターの前に整列している朝のスタッフに向かって頭を下げた。アイラさんも先ほど出勤してきて、僕の隣に並んでいる。
「あの……アイラさん?」
「はい、なんでしょうか?」
至って真面目な態度で返事が返ってきて、僕は少しほっとした。
「とりあえず、あなたが天使であることは内緒にしてください。人前でさっきの翼を出すのも禁止です」
きょとんとした後、アイラさんはふむふむと頷いた。
「二人だけの、秘密ですね」
にっこりと、うれしそうに笑顔を浮かべる。
そのあまりの無邪気さと眩しさに、僕は心を奪われた。
だから、彼女のその言葉が『星降る夜と君の詩』のヒロインの台詞であることを、僕は完全に見落としていた。
「昨日から勤務してもらっている、川崎アイラさんです」
「初めまして。昨日からこちらでお世話になっております、カシワギ・アイラと申します」
整列するスタッフに向かって、アイラさんは恭しく頭を下げた。
「ん?」と、僕とスタッフ全員の頭にクエッションマークが浮かぶ。
柏木アイラ?
「圭様の妻として皆様のお役に立てるよう、今日からしっかりとお勤めさせていただきます」
もう一度、ペコリ。
「圭、様……?」
「妻?」
スタッフの間にどよめきが走る。
僕はあんぐりと口を開いたままフリーズしていた。
アイラさんはうまく言えたといわんばかりに、むふぅーと鼻息を吐き出している。
僕はようやく理解した。
『星降る夜と君の詩』第一巻のクライマックス。ヒロインは主人公と同棲するため、主人公と「結婚した」と学校の教室でクラスメイトたちに宣言する。
アイラさんは、その場面を真似たのだ。
「ちがああぁぁぁーうッ!」
気づくと、僕は叫んでいた。
「こんなべっぴんさんに手ぇつけるなんて、圭ちゃんもやるようになったわねぇ」
「違う違う違う! 違いますからッ!」
朝のスタッフは、三人とも父と母の時代から店を支えているベテランのおばちゃんたちだ。ゴシップネタはあっという間に町中へ拡散されてしまう。マズいマズいマズい!
「アイラさん帰国子女だから、日本語の使い方がまだよくわかってないんです!」
「む……そんなことありません。ちゃんと婚姻の誓いを交わして、昨夜も圭様のお部屋で裸で肌を重ねました。こういう関係は『妻』で合っていると思います。本にも書いてありました」
「いやあああァァァーッ!」
昨夜の記憶がないから、アイラさんの言っていることを否定できない。
「こりゃあ面白くなってきたわねぇ」
ベテラン三人の顔がニヤリといやらしく歪んだ。
「よろしくね、アイラさん」
「圭ちゃんのことなら、あたしらあの子が寝小便してた頃から知ってっからね。なんでも教えてあげるわよ」
「ありがとうございます。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」
「あわわわわわ……」
こうしてうちの本屋に、本物の天使が舞い降りたのだった。




