第48話
「なにやってんのよ?」
お座敷からそっと厨房の方を覗き込もうとした僕とアイラさんの頭上から、リアの呆れた声が降り注いだ。
「お姉様まで」
腕組みをするリアの前で、僕とアイラさんはサングラスとマスクを外した。
「なぜバレたのですか?」
そりゃバレるだろうと思ったが、アイラさんが一生懸命考えた変装なのだ。僕もリアも口には出さないようにした。
「昨日あんなにへべれけになってたから、心配で見に来たんだよ」
「そりゃどうも」
今日の「幸子」でのリアのシフトは昼からだった。
黙って家を出ていったので心配していたのだが、いつも通りのリアに拍子抜けしてしまう。
「仕事の手は抜かないから安心してよ。それで、注文は?」
僕とアイラさんから日替わり定食のオーダーをとったリアは、厨房の仁志に「日替わりふたつ!」と元気に叫んだ。
「なんだか大丈夫そうですね?」
変装を見破られたのがショックだったらしい、アイラさんはしょんぼりした様子で呟いた。言った彼女の方が大丈夫ではなさそうだ。
リアがここで働き始めてまだ一ヶ月程度だったが、すっかり居酒屋の看板娘が板についていた。店内は以前よりも混み合っていて、リア目当てに来店している客も多そうだった。
「食べたら、帰って読書の続きをしましょうか?」
「はい」
騒動は、僕らが定食を食べ終わって食後のお茶で一服している時に起こった。
「出てこい、このやろう!」
お昼のピークを過ぎた店内に怒声が響く。
僕とアイラさんはお座敷から顔を出した。
「やめて、太智!」
レジカウンターのあたりで、背広を着た三十歳前後と思われる男性が仁志の胸ぐらを掴んでいた。その男性の後ろから藤井さんがしがみついている。
「人の嫁に手ぇ出しやがって!」
「……………」
藤井さんが太智と呼んだ男性は、おそらく彼女の旦那さんだろう。罵詈雑言を浴びながら、しかし仁志はじっとその男性を見つめたまま、動かなかった。
「やめなよ、他のお客さんもいるのに!」
リアが仁志のそばに立って怒鳴り返す。
そりゃダメだ! と思ったが、手遅れだった。感情的になっている相手に感情で返したら、収拾がつかなくなる。
「だいたい、手ぇ出すってなんだよ! 仁志はな、休みとらずに毎日店開けて忙しくしてんだ! よそで遊ぶ暇なんかあるわけないだろ!」
「な……」
リアの剣幕に、太智さんはたじろいだ。
「そういうあんたは、こんな真っ昼間に会社抜け出してきてわざわざ文句言いにきたのか⁉︎ たいしたご身分だな。そんなんだから詩織さんが愛想つかせて仁志に相談しにくるんじゃないかよ!」
「う、うるさい!」
太智さんがリアを突き飛ばす。
「きゃあ!」
「だめ、太智!」
仁志が拳を握り締めたのが見えた瞬間、僕は靴も履かずに飛び出していた。
「圭様⁉︎」
仁志は手を出さなかった。殴りかかったのは太智さんの方だった。
「うわあぁぁぁッ!」
多分、喧嘩なんかしたことがないのだろう。太智さんは駄々っ子のように頭上にかざした拳を振り下ろした。
あぁ、くそ。結局またこうなる。
太智さんのパンチは、間に割って入った僕の頬にクリーンヒットした。
「圭様!」
「圭!」
店に被害が出ないようにしたかったけど、無理だった。
僕の体は背中からレジに直撃し、そのまま床にズルズルと崩れ落ちた。
「店長⁉︎」
殴られたのが僕だと気づいた藤井さんが、アイラさんよりも先に僕を助け起こした。
「あ、ぁ……⁉︎」
太智さんは、僕の顔と自分の拳を見比べながら震えていた。
無理もない。他人を傷つけることに慣れていない人にとって、殴るという行為にはストレスが伴う。
太智さん——藤井詩織さんの旦那さんは、いい人なんだろう。
「あの……一旦落ち着きましょうよ。他のお客さんにも迷惑ですし、座って、話し合いましょう。ね?」
ニコッと笑おうとしたら、けっこうな勢いで鼻血が溢れた。
口の中に苦い鉄の味が広がる。元々大したことはない顔が、さらにブサイクになった。




