第42話
長い夜を抜けていく。
居無井町へ近づくにつれ、雪の量は激しさを増し、道路脇の積雪も分厚くなっていた。
——去年の雪に比べれば、まだ大丈夫だと思うけど。
スピードを出しそうになる自分を自制する。
タイヤはスタッドレスだし、いざとなればチェーンの用意もある。だけど、町へ続く唯一の峠を封鎖されたらどうしようもない。
「ほら、圭も食べるか?」
ほろ酔い気分のリアが後ろからイカソーメンの束をにゅっと出した。
「お前なぁ」
「なんだよ? おいしいんだぞ、これ」
うれしそうにイカソーメンを頬張るリアをバックミラー越しに見て、僕は少し気が抜けてしまった。
「ありがと。もらうよ」
「お姉様も」
「ありがとう、リア」
雪降る深夜の車内でもぐもぐと三人でイカソーメンを頬張る。愛らしいアイラさんの咀嚼を横目に見て、僕の頬は思わず緩んでしまった。
「圭は、本売ってて楽しいのか?」
さらに帰路を進んだ頃、欠伸をしながらリアが訊いた。
「仁志が心配してたぞ。大変なんだろ、経営って?」
ワイパーがフロントガラスの雪を流していく。
闇夜は深く、ライトをハイビームにしても遠くまで見渡すことができない。
「子供の頃、好きな作品があってね……」
前を見ながら、僕はポツリポツリと話し始めた。
「冒険者の女の子が主人公のファンタジー小説なんだけど。世界を救うとか、そういう壮大な物語じゃなくて、パーティのみんなが家族みたいなのんびりした話でさ。今は異世界スローライフもジャンルとして定着してるけど、子供の頃はすごく新鮮だったんだ」
「圭様の部屋の本棚の左端にある作品ですか?」
「そうです。すごく長寿な作品だったんですけど、つい先日完結したんですよ」
ふむふむ、とアイラさんは熱心に頷いた。今度読んでみるつもりなのだろう。
「子供の頃は、情報を取る場所も限られてて、父親が店に張り出す新刊案内を見るのが楽しみでさ。取次から新しいのが届いて案内が更新される日は、学校から帰ったらすぐにその作品の新刊が載ってないか、血眼になってメモとってた。
だから、新刊発売の翌日は学校の勉強なんか手につかなくて、部屋にこもって読み耽ってたよ。読み終わっても余韻が抜けないから、何回も読み直すんだ。
物語の中に自分がいるような……そういう体験って、なんて呼べばいいんだろうね。別に小説じゃなくても、マンガでも映画でもなんでもいいのかもしれないけど……疲れた時やちょっとわくわくしたい時、本棚から取り出して物語を読み返すっていう……そういうのが昔から好きなんだ」
ちっぽけな自分が、何者かになれるような気がして——。
「胸のすくような体験を、店に来てくれる人にもしてほしいと思った。……でも、現実は甘くない。売れないよ、本なんか。今はもう、本だけじゃやっていけやしないんだ……」
「圭様……」
「それでも、自分の好きな物語やキャラクターに出会った時の、胸の奥に『グッ』とくる感じを知ってほしいっていうのは、あるよね」
柄にもないことを話したのは、きっとこの雪と夜のせいだ。
アイラさんが僕の左手をキュッと握りしめて、僕は小さくはにかんだ。
峠の手前で、僕は車を停止させた。
国道に設置された電光掲示板に道路封鎖の案内が出ている。
雪は穏やかになっているけど、路肩の積雪が酷い。
この山を越えれば帰り着くのに……。
「ダメか……」
僕は無意識にハンドルの上部を指でトントンと叩いていた。
「少し、休憩しましょう」
「でも……」
「もう二時間近くずっと運転されています。だから、ね?」
アイラさんに促されて、僕は近くにあった月極駐車場の脇に車を寄せた。土地の所有者が除雪剤を撒いていたらしく、その駐車場のあたりだけ積雪の量が少なかった。
「ん……」
サイドブレーキを引いたところで、アイラさんが自分の膝を手でぽすぽすと叩いた。
「え……?」
ぽすぽす。
「んん……っ!」
ぽすぽすぽす。
どんちゃん騒ぎに飽きたリアたちは後部座席で寝入っている。
「じ、じゃあ……お邪魔します」
僕はシートベルトを外すと、体を横に倒してアイラさんの膝の上に頭を乗せた。座席はベンチシートタイプなので、体中に安堵感が広がっていく。
「……………」
アイラさんは僕の頭をやさしくなでた。
よく考えたら、外で膝枕をしてもらうの初めてだった。
あまりの心地よさに彼女の顔を見上げて、しかし僕は凍りついた。アイラさんのほっぺたが、ぷくぅっと膨らんでいたからである。
「え……?」
「私、怒ってます」
それは見ればなんとなくわかる。
「嘘ついて、私のこと置いていこうとしました」
「いや、あれは……すいません」
「さっきコーヒーで火傷した時だって、恥ずかしがって逃げるし……」
アイラさんの瞳に薄い涙の膜が張る。
「ち、違うんです! あれは嫌だったわけじゃなくて! ……ああいうのは、二人だけの時にいっぱいしたいっていうか……」
アイラさんは小さく微笑んだ。
前屈みになったアイラさんの唇が、僕のそれと重なる。
ボリュームを絞った車のスピーカーから、ソニー・ロリンズの名曲『あなたは恋を知らない』が流れている。テナー・サックスの神に愛されたハード・バッパー。初めて愛する人を見つけた男が告白をするように、激しいリズムに乗せて彼女への想いをぶち撒けている。
舞い散る雪は静かに車体をなでる。エアコンの暖房よりも、アイラさんのくちづけはまだ熱かった。
「私にまかせてください」
キスで頭がぼぉっとしている僕に、アイラさんはもう一度微笑んだ。
「起きなさい、リア」
「ほぇ……? あぁ、お姉さま、朝ですか? あたしはもうちょっとだけねむねむでございますです……」
「リア!」
「! は、はいっ!」
リアは背筋をピンと伸ばした。
「道路が封鎖されています」
「あ、ダメだったんですか? 雪やんできてるのに」
「アンドレとアイオンを使います」
「え?」
リアの表情が曇った。
「そ、それはダメです、お姉様」
「今は深夜ですし、この天候です。見ている人は誰もいないわ」
「そうかもしれないけど……。人間界で天使の力を使うのはタブーだって、お姉様だってわかってるはずです。あたしが派遣されたのだって、お姉様が圭を守るためにアンドレを使ったからなんですよ?」
「ホントなのか、それ!?」
僕はアイラさんの膝から飛び起きた。
道の駅でチンピラに絡まれた、あの時のことか。
「お願い、リア。私は圭様の力になりたいの。それに、辻さんと菜奈さんにもたくさんお世話になったから」
アイラさんは一点の曇りもない瞳で、まっすぐにリアを見つめた。
「う……ぅ……わかりましたッ! わかりましたよ!」
「ありがとう、リア」
アイラさんは身を乗り出してリアの手を取った。
天使の笑顔に、リアの頬がぽっとピンクに染まる。
「いったい、何をどうするんですか?」
今度はアイラさんとリアが同時に振り向く。
「とりあえず、シートベルトを締め直してください」
嫌な予感しかしない。
僕の額を冷や汗が一筋流れた。




