第38話
「久しぶりだね、圭」
柏木凪は実家に帰ってきた時と同じ調子で「よっ」と手を上げた。
この軽い感じと、常に何か企んでいそうな意地の悪い目つき。イエス岸本先生の席に座っているのは僕の実姉で間違いなかった。
「いや、ちょっと待てぇ!」
思わず僕は叫んでしまった。
「は? え……えぇ⁉︎ 姉ちゃんが岸本先生ッ⁉︎」
「そうだぞ、弟よ」
まぁ、とアイラさんは歓喜の声を上げた。
「凪様が先生だったなんて……これは神のお導きに違いありません」
アイラさんは恍惚とした表情で姉ちゃんの手を取った。
「待って……待ってくれ! 時系列があわない!」
混乱した僕は叫び続けた。
「え? じゃあなに? 姉ちゃん僕が高校の頃にデビューしてたってこと⁉︎」
「そだよー」
「いやいや、言ってよ! それならうちでもっと大々的に売ればよかったのに」
「チチとハハにも相談したんだけどさ、色々ややこしい事情があってだな、覆面作家としてデビューすることになったのだよ」
いくらなんでも狭すぎる。
あるのか、こんなことが……。
「姉ちゃん恋愛経験ないって言ってたじゃん! それでなんであんな詳細にラブコメ書けるんだよ⁉︎ ていうか大学の教授は⁉︎ 考古学は⁉︎」
「私の専門は先史考古学の性愛史だ。発見した文献や壁画なんかから当時の情事をアレンジして執筆に活かしてたんだな、これが」
だから『ほしきみ』はエロ描写があんなに大胆でエグいのか。
「どっちが本業なんだよ!」
「教鞭をとりながら執筆もする人は世の中にごまんといる。別に不思議なことじゃないだろ? どっちも先生だしね。わははっ」
最悪だ……。
知りたくもなかった事実がつながっていく。
『ほしきみ』はお気に入りのシーンに付箋貼って何百回も読み返している愛読書だ。正直に言うと、挿絵を含めておかずにしたことも一度や二度じゃない。
しかも僕は今、その作品のディープキスのシーン切り取ったシャツを彼女とお揃いで着込んでいる。
「ズーン……」と、思わず声に出てしまった。
恥ずかしすぎる。
僕は両手で顔を覆った。
身内が書いていたとわかるだけでこんなに複雑な気持ちになるとは。
「先生の弟さんなんですね?」
姉の隣の女性編集者が突然僕の手を取った。
「そうですけど?」
編集者はダバダバと涙を流しながら、僕の手をブンブンと上下に振り回した。
「こんな人がお姉さんで、これまで大変だったでしょう」
「だからさぁ、いつもごめんってぇ、椿ちゃん」
「先生はいっつも口ばっかりじゃないですか! 締切踏み倒すから電話したら地球の裏側にいるとか……頭下げるこっちの身にもなってくださいよ!」
中高の頃から、姉は冒険と称して家にほとんどいないような人だった。姉の突発的な行動に振り回される編集の人の気苦労はなんとなく想像できた。
「その様子だと、圭とはうまくいってるんだね?」
「はい。凪様のおかげです」
天使の笑顔を見せるアイラさんを、姉は眩しそうに見上げた。
「圭」
「ん?」
「お前、まだ手書きで話書いてるんだろ?」
「いや、最近はもう忙しくて……」
「これ、やるよ」
姉は僕にカバンの手帳から外したと見られるペンを握らせた。
それは、昔から姉が大事にしている万年筆だった。
淡いコバルトブルーのそのペンには、天使の羽をイメージしたデザインが施されていた。よく使い込まれて、相当な味が出ている。
「だめだよ、これ姉ちゃんが昔から大事にしてるやつじゃないか。それに、万年筆で原稿なんか……」
「いいからもらっとけ。お前はこれから、タフな人生を送るかもしれない」
「?」
「あとな……」
姉は僕の耳をグイと引っ張って囁いた。
「アレ、足りなくなったらまた送ってやるから、いつでも遠慮なく言うんだぞ?」
「な……⁉︎」
慌てて飛び退く僕に、姉は意地の悪い笑顔を浮かべた。
「なんだ、やっぱりもうそこまでいってんのか。むっつりのくせに、がんばってるな」
顔中が熱くなる。
くそ、かまかけられた!
思わず叫び返そうになって、僕は慌てて自分の口を両手で押さえた。
「圭様?」
アイラさんがきょとんした顔で僕を覗き込む。
とんでないことを口にするところだった。
まだ一個しか使ってないよ!
「素敵な時間でしたね」
ライトノベル展を後にして、みんなとの待ち合わせ場所へ向かう道中。
満足気にサイン本を胸に抱くアイラさんの隣で、僕はげっそりした顔で俯いていた。
「大丈夫ですか、圭様?」
「すいません、まさか姉がいるとは思わなくて、なんだか疲れてしまって……。アイラさんは、姉が岸本先生でも平気なんですか?」
アイラさんは可愛らしく小首を傾げた。
「凪様が作者様であってもなくても、素晴らしい体験を私にくれた作品であることに変わりはありません。それに、『ミーティアシャワー』と『ほしきみ』がなかったら、私はこうして圭様と……その……」
アイラさんの口が波打った。
「こ……ここ恋人、には! なれなかったかもしれません、ので……。とても感謝しています」
「アイラさん……」
彼女の手を握ろうとしたところで、角の奥に田丸さんと辻君の姿が見えた。
二人の間の雰囲気に、僕は思わずアイラさんの肩を抱いてビルの影に身を潜めた。
「⁉︎ け、圭様!」
「あ、すいません。あの……そこの先で、田丸さんと辻君がいい雰囲気だったもので、つい……」
二人で顔だけ出して路地の奥を覗き込む。
駅から裏通りを通って、田丸さんと辻君はこっちに向かって歩いてきていた。
「楽しかったね!」
「そっスね……」
「楽しかった! ……楽しかったなぁ。あーぁ、これで辻君と一緒に買い物行けるのも最後かぁ」
寂しそうに空を仰ぎ見た田丸さんの手を、辻君がつかんだ。
「?」
「そんなこと……」
「辻君……?」
「そんなこと、言わないでください」
僕とアイラさんはゴクリと唾を飲み込んだ。
「俺……俺は! ずっと、田丸さんのことが……!」
これ以上は、見ない方がいい。
僕が視界を塞ぐようにアイラさんを抱き寄せ、身を潜めようとした。
その時——。
「あぁーッ! 先輩たち見ぃーっけ!」
別の路地から姿を見せたリアが上機嫌で叫んだ。
「うわ……」
タイミングが悪すぎる。
二人がリアの方を振り向いた時、辻君はすでに田丸さんの手を離していた。




