第27話
「驚いた」
ベンチの前まで来たところで、早瀬さんはダッフルコートのポケットに手を突っ込んだまま僕を振り返った。
僕らが通っていた高校の近所の公園だった。子供向けのアスレチックやターザンロープまである広めの公園だったが、平日の十時だ、僕ら以外に人は疎らだった。
「けーくんから誘ってくれるとは思わなかった」
「いきなり家まで訪ねてごめん。連絡先わからなくて、実家の場所しか知らなかったから」
「ううん、うれしい。スマホは、お互いあの頃は持ってなかったもんね」
深呼吸をひとつする。
ひどく落ち着いている自分に、僕は驚いた。
「それで? 世間話するつもりで呼び出したわけじゃないんでしょ?」
「うん……」
まっすぐに僕を見つめる早瀬さんから、僕は目を逸さなかった。
「もう、来ないでほしいんだ。僕が目的なんだったら、スタッフや他のお客さんの迷惑だから、この間みたいなことはやめてほしい」
「お客さんとしてなら?」
「かまわないけど、僕は店長としての対応しかしないよ」
答えを予想していたのか、早瀬さんは「ふーん」と目を細めた。
「すぐに許してくれるなんて、わたしも思ってないよ。わたし、本気だから。けーくんしかいないの。わたしに優しくしてくれる人は」
彼女のその物言いに引っかかりを覚える。
「なんでもするから。けーくんがわたしのことまた好きになってくれるなら、なんでもする。奥さんがしてくれないことだって……わたしのこと、全部好きにしていいんだよ?」
気持ちが悪い。
彼女や、立木拓真を含めた、おそらく彼女がつきあってきたであろう男性たちの価値観に、僕は寄り添うことができない。
僕のことはどうでもよかったが、彼女が自分本位にアイラさんを傷つけたことも、僕は許せなかった。
「ごめん。僕はもう、君のことが好きじゃない。これから先、好きになることもないよ」
感情を出さないよう努めた。冷たい言い方になったかもしれない。
公園の遊具で、小さな子供が母親と一緒に遊んでいる。
杖をついたおじいさんが一人、ゆっくりと公園の中央を横切っていった。
早瀬さんの瞳が揺れたように見えた。
「……やっぱり、だめかぁ」
彼女は目を伏せながら、長いため息を吐き出した。
なぜ、早瀬さんではだめなのだろう? ——そんな考えが、ふと頭をよぎる。
高校の頃のように、彼女と一緒にいる自分を想像してみる。
だけど、それはうまくいかなかった。
早瀬さんの前で気取らずにいる自分が想像できない。僕は、彼女の前ではアニメを観ることも、ラノベやコミックを読むこともできないかもしれない。
〝このお話、すっごく感動しました〟
ふいにアイラさんの顔が思い浮かんだ。
あたたかい飲み物を用意して、互いに好きな本の感想を言い合う。時々、僕は仕事の話を聞いてもらい、彼女は出会ったお客さんや、田丸さんと辻君に教えてもらった本や、町の風景のことを話す。
そして、また二人で静かに本を読む。
僕が大切な人と想像する時間は、そういうものだった。
「少し、座らない?」
ベンチに腰掛けた早瀬さんが両足を伸ばして、僕も少し距離を空けて隣に腰をおろした。
「ホントはね、ずっと謝りたかったんだ。ごめんね……高校の時、勝手につきあおうって言って、勝手に酷いふり方して」
滑り台で遊ぶ母子を見ながら、早瀬さんは言った。
「……立木君とつきあうことになった後に、クラスの女子からすごく陰湿な嫌がらせを受けたの。その中には、けっこう仲がよかった友だちもいたから、ショックだったんだけど、立木君は何も助けてくれなかった。まぁ、自業自得だよね。
わたしって、男運ないみたいでさ。大学入った後につきあった人も、すぐに暴力振るったり、つけないでしたがるような男の人ばっかりで。すぐ浮気するし……なんかもう、疲れてきちゃって。
そんな時に、昔けーくんが図書室ですすめてくれた小説のこと思い出して、読み返してみたんだけど。思いきり泣いちゃったんだ、わたし。その後、モールの館内放送でけーくんの声が聞こえて……」
高校の図書室の、あの時間を思い出す。
生徒も少ない静かな時間の中で、小声で他愛のない会話をする彼女と、春の風に揺れていた窓際のカーテンを思い出す。
「アイラさんだっけ? あの人のこと見てるけーくん、すっごいやさしい顔してるんだもん。あんな顔、わたしには一度もしてくれたことなかった。いまさらなのはわかってたけど、そんな権利ないこともわかってたけど……すごい、嫉妬した。わたしはけーくんのこと、好きだったんだって気づいたの」
きっかけがあったことはわかった。
それでも、どうして早瀬さんが今頃会いにきたのか、僕には疑問だった。
早瀬さんは頭のいい人だ。アイラさんの存在の有無にかかわらず、僕がよりを戻すはずがないことは、彼女にはわかっていたはずだ。
ひとつの仮説があった。
「あの作家さんさ、あの本の後も純愛小説いっぱい出してるから。もし時間があるんなら、読んでみるといいよ」
僕はじっと彼女の顔を見た。
多分、僕が何を言いたいのか伝わったのだろう、彼女は咄嗟に左手の手首を右手で覆い隠した。
「すごく泣いたし、いい話だと思ったけど……。あんな恋愛、現実にはないよ」
「僕はそうは思わない」
辛い現実があっても、この世界には確かに存在する。物語のように美しい何かが。
僕は本を売る人間だから、それをたくさんの人に届けたいと思う。
「アパートに泊めてくれた時、抱いてくれればよかったのに。そしたらけーくんのこと、また好きになることなんてなかったのに」
「僕は、臆病者だからね」
「自殺したりしないから、安心してよ。大学の頃の先輩が東京でアパレルのお店やってて、お店増やしてるから手伝ってほしいって誘われてるんだ。迷ってたけど、踏ん切りついた」
早瀬さんは立ち上がって大きく伸びをした。
「さっき言ってた本って、けーくんのお店にも揃ってるかな?」
「有名なタイトルなら、うちの店でも文庫の棚にあるよ」
「後で買って帰ろうかな。案内してくれない?」
僕は首を横に振った。
伝えるべきことは伝えた。僕が彼女にしてあげられることは何もない。
「やっぱり? ダメだね、わたし。自分に甘くて。でも、気になるから自分で探して、売上には貢献しとく。あ……でも、奥さん働いてるのかな?」
確かに勤務中だけど、彼女だってもうプロだ。客として来た早瀬さんを邪険にはしないだろう。
ただ、やはり心配だった。
「ほら、また……あの人の話になるとそういう顔する。この前酷いこと言ったし、謝っておきたいから、声はかけるよ」
「それは……」
「なら、ついてきて」
う……と僕は言い淀んだ。
「最後くらい、筋通させてよ。二度とけーくんの前には現れないって、ちゃんと謝っておくから。買った本は、あっちで落ち着いたら、読んでみるね」
早瀬さんがまた辛くなった時、その物語たちが少しでも彼女の救いになるといい。
どうか——僕は切実に願った。
ごめんね、と彼女は言った。
「今まで苦しめて、本当にごめんなさい。でも、けーくんとちゃんと話せてよかった」
早瀬さんは公園の外へ歩いていくと、最後に一度だけ、寂しそうな顔で振り返った。
「ばいばい、けーくん」
僕はさよならを返さなかった。
彼女へのお別れは、大学二年のあの冬の日にすでに済んでいる。




