第26話
◯
昔から、ヒロインに一途な主人公が好きだった。
世界と大切な人を天秤にかけた時、迷わずヒロインを選ぶような主人公に憧れた。
いつか自分に好きな人ができた時、自分が敬愛する物語の主役たちのように、相手を大切にしたい。守ってあげたい。
子供の頃は、それができると本気で信じていた。
クラスが違う早瀬さんと知り合ったのは、高校三年の時に図書室の受付係を一緒にするようになったのがきっかけだった。その頃、僕はまだ眼鏡をかけてなかったし、早瀬さんも黒髪のストレートで、純朴なイメージが強かった。
僕も早瀬さんも推薦で早期に大学受験を終えていて、よく図書室の係を引き受けていた。特に僕の方は家が本屋で問い合わせにも対応でき、図書室の先生の手伝いもやっていたので、重宝されていたのだろう。
「学校の書架の本の購入って制約多くて難しくてさ、柏木がいてくれて本当に助かるよ」
後から聞いた話では、読みたい本のリクエストを伝えるだけで選書をしてくれる僕のことは、本好きの生徒の間ではけっこう有名だったらしい。
図書係の先生や貸し出しを終えた生徒が帰っていく度に、早瀬さんは「ほぇ〜」と可愛らしい声を上げて僕を見上げていた。
「柏木君って、すごいんだねぇ」
そう言われるのが嬉しくて、僕が図書室の貸し出し係を引き受ける回数は増えていった。
今考えると、彼女は流されやすい性格だったんだろうなと思う。
僕と早瀬さんがつきあうことになったのも、お互いのクラスメイトや他の図書委員の人たちに囃し立てられたというところがきっかけとしては大きい。
「これ、薄いし読みやすいと思うから」
恋愛小説のおすすめを図書室の棚から持ってきて、僕は早瀬さんに手渡した。あまり本を読まないから、入門書として読めるものを教えてほしいとリクエストを受けたのだ。
平凡な主人公と難聴のヒロインの純愛小説。古いタイトルだけど、インターネットを通して主人公二人がお互いに真摯に向き合う姿に、今も熱烈なファンが多い作品だった。
「本のこと、先生よりも知ってるんじゃない?」
あらすじを話し終えた僕に、早瀬さんは目をキラキラさせた。
「柏木君と話ししてると、落ち着くっていうか、安心するんだ、わたし」
つきあっちゃおうか……?
と、彼女は言った。
春も終わりの時期だった。
はにかむようにそう言う早瀬さんに、僕は何度もコクコクと頷いた。
「ゲームの続編の出来が酷いとかで何ヶ月も落ち込んでたくせに、現金な奴だな」
毎日浮かれ気分だった僕に、仁志は呆れ顔でぼやいた。
「なんだっけ? 『俺の嫁が他のキャラに寝取られた設定になってる』とかなんとかメソメソ泣いてなかったっけ、お前?」
「あんなのはしょせんゲームの中の紙芝居だよ。僕はあんな風にはならない。たとえケンカしたって、早瀬さんのこと、大切にするんだ」
教室の後ろのドアの影からひょこんと顔を出してにっこりと笑顔を向ける早瀬さんに、僕はデレデレと手を振り返した。
「おせっかいで言うけどよ、お前のそのオタク趣味なとこ、早瀬の方は知ってんのかよ?」
「まだ言ってないけど……ダメかな?」
「わからん。俺ぁ圭のそういうとこも含めてダチだと思ってっけど、どいつもこいつもスクールカーストだなんだってうっせぇからな」
今時リーゼントで登校してくる仁志もどうかと思うけど、僕は口には出さなかった。
「……そのうち話すよ。早瀬さんが嫌なら、ゲームなんかいらないし、アニメだって観るのやめる。ラノベとか表紙がそれっぽいやつも読まないようにするから」
「いいのか、それで? お前のライフワークなんじゃなかったのかよ。バラしてお前の趣味理解してもらった方がいいんじゃねーの?」
「大丈夫! ……たぶん」
僕が鞄を用意している間に、早瀬さんに声をかけている男子生徒がいた。立木拓真だ。長身で整った顔立ちをしていて、同学年では一、二を争う人気の男子だった。
「気をつけろよ。立木のやろー、女に手ぇ出すの早いって噂だからな」
二人は親しげに話をしていた。それは下校の挨拶で、クラスメイトならよくあることだろうと、僕は自分に言い聞かせていた。
僕は早瀬さんのことを大切に思っていた。
ハグはおろか、キスすらしようとしたこともなかった。
したことといえば、下校の時に勇気を出して手をつないだことくらいだろう。夏の終わり、二人俯きながら寄り添って下校した時のことはよく覚えている。
「けーくんといるとね、なんだかのんびりやさしい気持ちになれるんだぁ」
早瀬さんにそう言われることがうれしかった。
「けーくん」と言われるだけで、僕はしあわせだったのだ。
僕は知的な文学少年を気取っていた。昔から本はオールジャンル読む方だったけど、とりわけライトノベルやアニメなんかが好きなことは言い出せないままだった。
季節が秋に差し掛かった頃、学校の帰りに彼女が家に遊びに来たことがある。
部屋を大急ぎで片付けた僕は、部屋中のアニメのポスターを剥がし、いかがわしい表紙のコミックやライトノベルを——『流星群』も——隠したが、その時書いていた自作の小説の原稿用紙だけは、学習机の上へ出したままにしてしまった。当時はスマホもパソコンも持っていなかったのである。
書いていたのは、いわゆる厨二病全開のファンタジー小説だった。
この時の彼女の眼差しを、僕は忘れることができない。
黄昏時、飲み物を入れて自室に戻ってきた僕に、早瀬さんは憐れむように言った。
「圭君、こんなの書いてるんだ」
けーくん——とは、彼女は言わなかった。多分、この頃から立木拓真のアプローチはあったんだろうと思う。
断っておくが、僕を蔑んだ早瀬さんが悪いとは思わないし、今でも思っていない。
世の中には様々な価値観がある。歩み寄れるものもあれば、相入れないものもあるだろう。僕と早瀬さんの間には渡ることができない断崖絶壁の溝があった。彼女はただ図書委員だったというだけで、僕のように本や物語が好きというわけではなかった。空想に想いを馳せる人種ではなく、現実を生きる人だった。
それだけのことなんだ……。
それでも僕と早瀬さんの交際は続いていた。
ただ、彼女はあまり図書室の受付をやらなくなっていた。
秋の終わり頃。
夕方、図書室を閉めた僕は教室に忘れ物を取りに戻っていた。
「だめ……や、めて……」
早瀬さんのクラスの教室を通り過ぎる時、僕は思わず足を止めて教室後方のドアに身を潜めた。
教室の中に、早瀬さんと立木拓真がいた。机に押し倒すような勢いで、立木が早瀬さんに抱きついている。
ヒュ……と、僕の喉から小さな悲鳴が上がった。
「ホントにやめていいの? 全然力入ってないのに」
「だ、だって……」
「柏木だっけ? あんな奴より、オレの彼女になった方が楽しいと思わない? みんなにも自慢できるし、オレなら昴の知らないこと、いっぱい教えてあげられるよ?」
「あ……」
立木は早瀬さんを強く抱き寄せながら、強引に彼女の唇を奪った。
その数秒が、僕には永遠のように感じられた。
大きく目を見開いた彼女は、やがて瞳を閉じると、立木の背中に両手を回して、しがみついた。
吐き気が込み上げてきて、僕は思わず口元を手で押さえた。今吐いたら、体の中の臓物が全て出るんじゃないかと思えた。
「は……は……」
一瞬、立木が横目で僕の方を見た気がした。でも次の瞬間には、立木は早瀬さんにキスを繰り返しながら、彼女を机の上に組み敷いていた。僕みたいな奴は、相手にする必要もないということなのだろう。
「……いいよね?」
立木は自分のズボンのベルトに手をかけた。カチャカチャという音が僕の頭にこびりつく。
この時、僕はどうするべきだったんだろう。
僕がもしマンガや小説の主人公なら、立木の前に飛び出して早瀬さんを奪い返していたんだろうか?
実際の僕は、その場から走って逃げ出していた。
途中の階段で下まで転がり落ち、校門を出たところで道路脇の溝に嘔吐した。
子供の頃、父の店に並んでいる冒険小説の背表紙を眺めるのが好きだった。棚に並んだ無数の物語の主人公たちは、みんな世界や大切な人を守っている。自分もそんな風な生き方ができると信じていた。
僕はヒーローなんかじゃなかった。好きな人を取られても泣きながら逃げ出す、ただの愚図にすぎなかった。
秋の終わりを告げる、冷たい風が僕の頬をなでた。
みじめだった。
「圭なら知ってると思うけどよ、世界の半分は女らしいぜ?」
だからまぁ、元気出せよ——と、仁志は僕の肩を叩いた。虚ろな目をして生返事しかしない僕に、さすがの仁志もそれ以上茶化すことができなかったらしい。
「お前、ちゃんと飯食ってんのかよ?」
「食ってないけど、大丈夫だよ」
「いや、全然ダメだろ……。フラフラじゃねぇか。まさか睡眠もとってねぇーんじゃねぇだろうな?」
「だから大丈夫だって。昨日もシュールレアリズムとニヒリズムの論考夜通し読んでただけだから」
「それもう末期だろ……」
その時、廊下の前方から歩いてくる三人組を見た僕は体を硬直させた。真ん中の男子生徒が立木拓真だったからだ。
「あん……?」
僕の様子を見た仁志の目つきが鋭くなったことに、僕は気がつかなかった。
「拓真さぁ、お前人の女に手ぇ出す癖なんとかしろよな。そのうち刺されるぞ」
「あっちの方から寄ってくるんだから、仕方ねぇだろ。だいたい、オレはいつも真剣に相手してんだぜ?」
「うーわ出たよ。なぁ、今度は何ヶ月もつか賭けようぜ」
聞きたくもない会話が耳に飛び込んでくる。
行こう、と隣の仁志に声をかけてギョッとした。そこに仁志の姿はなく、僕が前方を振り返った時にはもう、仁志は立木の首に手を回して絡んでいたからである。
「お前、よく見たらいいネックレスしてんじゃねぇーか。校則違反だぜ? 俺にくれよ、それ」
「な、んだよ? やんねーよ。触んなよ」
立木と取り巻きの二人は、明らかに萎縮していた。その見た目と喧嘩っ早さから、このあたりで悪童・小嶋仁志の名前を知らない者はいない。
「あ? なんだよ、さっきお前らが言ってたんじゃねぇーか。人のもんでも気にいったら取っていいんだろ?」
仁志の膝蹴りが腹部にめり込んで、立木の体がくの字に折れ曲がった。
「が……は……!」
「なんかお前の顔と喋り方、すげぇムカつくから殴るわな」
仁志の右ストレートが頬を直撃して、立木が横の教室の中へと吹き飛んでいく。僕たちとはまったく関係のないクラスだ。
「きゃあッ!」
「うわッ! なんだケンカかッ⁉︎」
教室の中が騒然となる。
「い、いてぇ……やめて。やめてくれよぉ……」
懇願する立木の胸を、仁志はサッカーボールを蹴るように思い切り蹴り上げた。立木の体は教室後方のロッカーに激突し、掃除用具を床にぶち撒けた。
「なにやってんだよ、仁志!」
僕は慌てて仁志の前に回り込み、さらに拳を振り上げようとしている仁志の腕にしがみついた。
「いいよ、こんなことしなくて!」
「うっせぇーな。圭のためじゃねぇっつーんだよ。俺ぁ義理と筋通さねぇ奴が大嫌いなんだ」
僕と仁志が揉み合っている間に、立木は床に転がった箒を逆さに持ってこちらに殴りかかってきた。
「クソが!」
「! 仁志!」
T字型の硬い先端が、仁志を庇った僕の側頭部に直撃した。大きく視界がぶれて、嫌な入り方をしたことが自分でもわかった。
「てめぇ!」
二人の間に割って入った僕が双方から何発かもらったはずだけど、その時のことはよく覚えていない。
「……それで、喧嘩の原因はなんなんだ?」
その後、生徒指導室まで連行された僕らは、屈強な体育教師の前で横一列に整列させられた。
「俺が最初に手ぇ……」
「僕がやりました!」
仁志と立木は一斉に僕の方を見た。
「僕から立木君に殴りかかりました」
「理由を聞こうか?」
「……恋愛ゲームって、先生知ってますか?」
「は?」
「ギャルゲーとかって言うんですけど。立木君の顔が、似てたんです。好きな恋愛ゲームの続編に出てくる、ヒロインを横取りしていくライバルキャラに。だからムカついて殴りかかりました」
「柏木……ふざけてるのか、お前?」
停学一週間。
真面目に生きてきて、初めて学校からペナルティをくらった。
解放された時、立木は僕の方をじっと見ていたけど、僕は無視して教室の方へ歩いた。
廊下の突き当たりから、早瀬さんが心配そうな顔でこちらの様子をうかがっているのが見えた。
「あの……」
近づいても、彼女は僕と目を合わせなかった。
「行ってあげなよ」
ちゃんと落ち着いた声で言えただろうか?
声が震えてはいなかっただろうか?
彼女は弾かれたように顔を上げると、「ごめんね」と言い残して、僕の横を通り過ぎていった。
「おい。よかったのかよ?」
駆け寄った早瀬さんと立木がどんな会話をするのかなんて、知りたくもなかった。僕は廊下の突き当たりを右に折れて闇雲に突き進んだ。
「そっちは保健室じゃねぇだろ」
「いってぇ……」
僕は立木に殴られた側頭部を手で押さえた。
「すごい、痛いや……」
痛くて、涙が溢れた。
それから仁志は僕の肩に手を回して、僕のくだらない散歩につきあってくれた。
何も言わない親友がありがたかった。
アイラさんが空から落ちてくる一ヶ月前のことだった。
早瀬さんとのことは、世間ではよくあるようなことだったんだと思う。
あの後、卒業までの間に彼女は立木と別れたらしいと人づてに聞いた。そんな話は学校の中だけでも数えきれないほどあった。相手のことをずっと長く大切にしたいと思う、僕のような人間の方が珍しいのかもしれない。
それでも、大学へは実家から電車で通える距離だったのにもかかわらず、詰め込んだアルバイトで家賃を払うアパートでの一人暮らしを選んだことに、早瀬さんが影響していないと言えば嘘になる。
あの頃、僕はどうしてもこの町にいたくなかった。
最後に早瀬さんを見たのは、大学二年の冬の日だった。
その頃、アイラさんとの記憶を消された僕は、アパートに引きこもってひたすら原稿用紙を書き殴っていた。取り憑かれたように書いては、原稿用紙を丸めて捨て、また書き始める。早瀬さんが訪ねてきたのは、そんな時だった。
「久しぶりだね」
その日は雪が降りそうなほど冷え込んでいた。安アパートの連絡通路の電灯に照らされて、薄着の早瀬さんが立っていた。
「な……んで……?」
彼女の髪型や服装は派手になっていて、高校の頃の面影はまったくなかった。
高校の僕のクラスメイトから、僕のアパートの住所を聞いたらしい。
「泊めてくれないかな?」
笑顔だけはあの頃のまま、早瀬さんは僕を見上げた。
彼女の頬には殴られたような痣があり、酒と煙草の臭いがした。
「メガネ、かけてるんだね」
「……視力が落ちたんだ」
立木に箒で頭を殴られたのが原因のようだったけど、僕はそのことを絶対に彼女には言わないと心に決めていた。
「彼女、いるの?」
「いないよ」
「そうなんだ。よかった」
多分、彼女は最初から僕とそうなるつもりでここへ来ていた。彼女は部屋の端に座る僕にしなだれかかり、僕の腕に手を回して胸を押しつけていたから。
押し倒してしまえばいい——と、もう一人の僕が何度もささやいた。
彼女は僕に酷いことをしたんだ。お前の気が済むまで好きなように犯してしまえばいい。彼女だってきっとそのために来たんだから……。
世の中の人は、こういう時どうするんだろう?
どうしても、僕は彼女と関係を持つ気になれなかった。それをしてしまったら、僕は自分のことが本当に嫌いになってしまうと思った。
早瀬さんがシャワーを浴びている間に、僕は財布に入れてあったバイト代の三万円を彼女の荷物の上に置いた。それから書きかけの原稿用紙の束をリュックに詰め込んでアパートを出た。
電車で実家に戻った僕は、三日間徹夜でひたすら原稿用紙と向き合っていた。人に見せられるような文章じゃなかったけど、書いている間だけ、僕は落ち着くことができた。大切な何かに触れているような、あたたかい気持ちになった。
四日目の朝。アパートに戻ると、そこに早瀬さんの姿はなかった。
◯
朝起きると、家にアイラさんの姿はなかった。
どうやら僕は寝坊したらしい。彼女は午前の勤務で、僕は昼からだった。
一階へ降りてリビングに入ると、こたつの上にアイラさんのメモがあった。
《先日の圭様のシチューがおいしかったので、私もビーフシチューを作ってみました。材料は勝手に使わせていただきました。ごめんなさい。うなされていたようだったので、パンと一緒に食べてください。今夜圭様が帰ったら、私も一緒に食べたいです》
夜、僕が寝た後に台所で奮闘しているアイラさんを想像して、涙が出た。
——早めに決着をつけた方がいい。
頬を両手で思い切り叩いた後、僕はコンロのスイッチをオンにした。




