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第25話


   ◯


「話があるんですけど」

 柏木書店から自宅までの道をとぼとぼ歩いていた時、先ほど圭に抱きついていた女性が後ろから声をかけてきて、アイラは振り返った。

「ごめんなさい、自己紹介がまだでした。わたし早瀬(すばる)って言います。けーくんとは、高校生の頃に一緒に図書委員をやってました」

 早瀬は丁寧に頭を下げた。

 来ているジャケットもスカートも少し派手だったが、その所作からは礼儀正しい真面目な印象をアイラは受けた。

「失礼こと聞きますけど……あなた、けーくんのなんなんですか?」

 まっすぐにアイラを見つめながら、早瀬は言った。

「私は……私は圭さんの妻です」

 アイラは目を逸さなかった。

 ここで逃げてはいけないと思った。

 圭は彼女に抱きつかれて困惑しているようだった。動揺して逃げ出してきてしまったが、何か事情があるのかもしれない。

「ふーん、奥さんねぇ……。まぁ、不倫でもいいかな」

 不倫……たしか、不道徳な男女関係をさす。

「なにを……おっしゃっているのですか?」

 圭様は私のものです——と、アイラは叫びたかった。

 だができなかった。

 実際には夫婦の契りを交わしたわけではないし、そんなものは目の前のこの女性には大した意味をなさないだろう。

 彼女は自分が知らない柏木圭を知っている。圭は彼女に対して敬語ではなかった。そんな些細な事実がアイラを追い込んでいた。

「外国の人っぽいけど、ハーフですか? 男女の恋愛観の違いって知ってます? 多分万国共通だと思うけど。女性は恋を上書きしていくけど、男性って恋を分けて保存しておくんですよ」

 特に初恋は。

 早瀬の言葉に、アイラの胸の奥がズキズキと痛んだ。

「わかり、ません……」

「男なんてみんな体目当てで、怒鳴って殴って黙らせればえらいと思ってるんです。だけどけーくんだけは違ったの。高校の頃から、いつもやさしかった。だから大学生の時も、もう別れてたのに、彼はわたしを自分のアパートの部屋に泊めてくれたんだから」

 全身から力が抜けて、アイラはこれ以上立っていられないような気がした。

「気づくのが遅くなったけど、この前声を聞いて、やっとわかったんです。わたしにはやっぱりけーくんが必要なんだって。あなたみたいな美人なら、他にも相手をしてくれる男の人がたくさんいるじゃないですか」

「圭さんは……圭様は、私とおつきあいしてるんです」

 声が掠れて、相手に届いたかどうかはわからなかった。

「わたし、コソコソするのは嫌だから。勝手だとは思うけど、ちゃんと伝えましたから」

 笑顔をひとつ残して、早瀬は去っていった。


 十時頃まで、アイラはベッドから起き上がることができなかった。

 早朝、圭が家を出て玄関の鍵をかける音は聞こえていた。だが、どうしても顔を合わせることができなかった。

 圭のことを信じていないわけではない。なのに、話を聞いてほしいと言った彼の言葉を、心が受け入れることを拒否していた。

 体が重たい。

 なんとか上体を起こして翼を広げる。

「いや……」

 覚悟はしていた。

 だが、アイラは自分の両翼の先端が黒く濁り始めているのを目撃し、恐怖した。

 堕天。

 まさか自分に起こるとは思わなかった。

 ——この感情は、嫉妬だ。

 早瀬昴が、圭に慣れた言葉で話しかけていたことが許せなかった。自分が知らない昔の圭を知っていることが羨ましかった。圭の感情が、ほんの少しでも彼女に向くのが怖かった。

 圭は彼女を部屋に入れて、何をしたのだろう? 彼はやさしい人だから、私にしてくれたようなことを、彼女にもしたのだろうか?

 のろのろと起き上がって一階へ降りる。

 リビングのこたつの上には、圭の字で書かれたメモが置いてあった。

《おはようございます。昨日シチューを作っておいたので、温めて食べてください。食パンを焼いて、少し浸して食べるとおいしいですから》

 昨日は話も聞かず、あんなに酷い態度をとったのに……。

 言葉は尊く、文字は美しい。

 圭の手紙を、アイラは胸に抱きしめた。

 彼女の翼の灰色の濁りは、先ほどよりも薄くなっていた。


 それでも、午後からの勤務ではやはりアイラと圭の間はギクシャクしていた。

 普段から仕事中は業務以外の会話をする二人ではないが、互いに目は合わさず、彼との間に見えない壁のようなものを感じた。いや、もしかしたらその壁を作っているのは自分の方なのかもしれない。

 夕方の勤務終了まで、早瀬昴が姿を見せなかったことだけが唯一の救いだった。

「あ……お疲れ様です」

 勤務を終えて裏の搬入口から外に出たところで、アイラは辻卓郎と出くわした。

 辻は壁にもたれかかって缶コーヒーを飲んでいた。

「今日はお休みの日では?」

「欲しい本の発売日だったんで……」

 辻はそこで言葉を切った。

「いや……ホントは店長とアイラさんのこと、田丸さんに伝えとかなきゃと思って、顔出したんス。嘘ついてすいません」

 頭を下げる辻に、アイラは首を横に振った。

 妙な沈黙があった。

 元々アイラも辻も自分から喋るタイプではない。だが、辻はアイラに何かを伝えたそうに何度か口を開きかけては閉じるを繰り返していた。

「……ちょっとだけ、俺のこと話してもいいっスか?」

「ぜひ」

 アイラは辻の隣の壁に背中を預けた。

 このまま帰っても、一人で悶々とした時間を過ごすだけだ。

「……俺がここでバイトするようになったのって、仁志さんに紹介してもらったからなんですけど」

 辻は前を向いたまま話し始めた。

「俺んち母子家庭で、母親が男取っ替え引っ替えだったから、ほったらかしにされること多かったんスよ。だからって言い訳するつもりないですけど、俺も素行悪くて、仁志さんとこに住み込みさせてもらうまではヤンチャなことばっかしてたんス。

 高校出てしばらくは仁志さんとこで働かせてもらってたんですけど、話つけてあるから柏木書店に面接行ってみろって言われて。あそこは人がいなくて困ってるからってのと、店長が息子に変わったばっかだけど、すげーいい奴だから勉強になるって。

 最初はなんで本屋なんだって思ったんス。悪い意味じゃなくて、俺本なんてエロ本以外……って、すいません、大して読んだことなかったし、もし採用されても、俺みたいな奴が店員でいたら迷惑かけるんじゃないかって。

 面接の時も、正直店長のことすげぇ頼りねぇなって思ったんス。でも、店長と、その……田丸さんに、色々仕事教えてもらって、俺でも読めそうなマンガすげー教えてくれて、貸してくれたりして、自分で買ったりスマホでも読むようになったんですけど……」

 

 柏木書店で働くようになって半年くらいが経った頃のことだった、と辻は言った。

 高校生の頃に、特に仲が悪かった悪友数人が店にやってきたのだという。

「冗談かと思ったらマジで本屋で働いてんじゃん、こいつ」

 リーダー格の男は、レジカウンターの辻にニヤニヤした顔で詰め寄った。

 マズイな、と辻は思った。

 こいつらに喧嘩で負けたことはないが、今はまだ勤務中だ。店長や田丸さんに迷惑をかけるわけにはいかない。

「本を注文してある」と、男は意外なことを言った。

 後ろの棚を指差すので、辻は振り返った。それが罠だった。

「いって!」

 大袈裟な男の叫び声で再びレジカウンターの方を向く。カウンターの上にはレジ横のペン立てにあったはずのカッターナイフが転がり、男の指からわずかに溢れた血が滴っていた。

「うーわ最悪、切りつけやがったよ、こいつ」

 やられた、と辻は思った。

 何が楽しいのか知らないが、連中は最初からこれが狙いだったのだ。

 騒ぎを聞きつけて、売場の奥から店長が戻ってきた。

「お前んとこの店員にカッターで切りつけられたんだけど」

 急いでカウンターの中に入った店長は、素早く状況を観察していた。

 もしかしたら、過去にもこういうトラブルの経験があったのかもしれない。店長は小さく息を吸い込んでから連中とカウンター越しに対峙した。

 リーダー格の男の後ろで仲間の一人がスマホの動画撮影をしているのが見え、辻は思わず激昂しそうになった。

 それを、店長はカウンターの下から手を辻に向かって開くことで制止した。

「ねぇこれどうすんの? めっちゃ血ぃ出てんだけど。しょーがい事件じゃね?」

「こちらの対応に失礼があったならお詫びします。申し訳ありません」

 深く頭を下げた後、カウンター脇のウエットティッシュを差し出した店長を、リーダー格の男が睨みつけた。

「お怪我は大丈夫ですか?」

「なめてんの、あんた? 大丈夫ですかじゃねぇーよ。誠意見せろっつってんだよこっちはよ!」

 男がカウンターの下を思い切り蹴りつける。

 甲高い音が店内に鳴り響いて、コミック売場にいた学生が一斉にこちらを見た。

「警察に来ていただきましょう。もし怪我の程度が酷いなら、救急車もお呼びします」

「は? そこの店員に切りつけられたのなんか見てわかんだろうがよ」

「そうですね。おっしゃられる通り、うちのスタッフが切りつけたのなら大変な事件です。ですから、警察に立ち会っていただいて、事実確認をさせてください。幸いレジには防犯カメラもあります」

 店長の視線の先を追って、連中の顔色が明らかに悪くなった。かなり見えにくい位置だが、入口付近の上部にある小型のカメラはレジカウンターを見下ろしていた。

「ふざけやがって……こっちは怪我させられたんだぞ、身内かばってんじゃねぇーよ! てめぇ、辻の野郎がどんな奴か知らねぇで働かせてんじゃねぇだろうな! こいつがどんなことしてきてんのか全部バラしてやろうか、あぁ⁉︎」

「話が噛み合いませんね。こちらはまず事実を確認させてくださいと申し上げているだけです。先ほどの話が事実なら、改めて然るべきお詫びをさせていただきます」

 その時、店長はわざとカウンターから体を前に出したように見えた。

「誠意見せりゃあ穏便に済ませてやるっつってんだろうが! 金で解決できる話だっつってんだよ!」

「店員の指導は全て私が行なっています。もし本当に彼があなたたちを傷つけるようなことをしたっていうんなら、それは店を管理する私の責任です。事実関係の確認さえできれば、私からお詫びと然るべき対応をさせていただきます。それが私の考える誠意です」

 直後、店長の体がカウンター後方に吹き飛んで背後の壁に激突した。リーダー格の男が店長の顔目掛けて拳を振るったのである。

「お前……!」

 前に出ようとした辻を、また店長が首を横に振って制止した。切れた唇から血が出ていた。

「なにやってんだよ!」

「バカ! お前が殴ってどうすんだよ!」

 慌てふためいたのは取り巻きの連中だった。

「クソが! すました態度しやがって、辻の野郎よりこいつの方がムカつくぜ!」

「辻君、警察呼んで。交番からならすぐに来てくれると思うから」

「あ……はい」

「ほら、ヤベーって! 次パクられたらしばらく出てこられねーんだぞ!」

 辻が電話の子機を取る。

 カウンターを回り込んでなおも店長に殴りかかろうとするリーダー格の男を羽交い締めにしながら、取り巻きの連中は店から退散していった。

「大丈夫、辻君?」

 起き上がった店長は、奥にいた学生たちに「お騒がせしてすいません」と頭を下げた。

「俺はなんともないっスよ。店長の方がヤバいじゃないっスか!」

「古い本屋だから、防犯カメラなんてないと思ったのかな。こういうの、あんまりよくないやり方なんだけど、手出してくれてよかった。おかげで正式に出禁にできる」

「あれ?」と、店長は自分の両手を見て苦笑した。

「今頃震えてきちゃった。ダメだなぁ、やっぱり……」

 怖かったなぁ……と言いながら、店長は諦めたような顔で笑っていた。


「店長の怪我は、大丈夫だったのですか?」

 アイラは顔面蒼白になりながら訊いた。

「なんか、高校の時に何度かおんなじような目にあってるとかで、平気だって言ってました」

 もう一年以上も前のことだと、辻は目をやさしく細めて続けた。

「店長はマニュアル通りに対応しただけだって言ってたけど……俺、人から信用されたことってあんまりなかったから、うれしかったんスよね。真面目に仕事してたし、そういうとこちゃんと見て信頼してくれてんだなって」

 そうでしょうそうでしょうと、アイラはうれしそうに腕組みをしながら頷いていた。

「店長って、自分のこと後回しにするっていうか、自分から殴られにいった時もそうっスけど、自分のことなんかどうだっていいって思ってるフシがあるように見えるんス。中学とか高校の時の俺がそうだったから、なんかわかるんスよ。この人けっこう自暴自棄なところがあるんじゃないかって。

 だから、この前アイラさんが迷子になった時に、店長が俺に向かって怒鳴ったのはすげぇーびっくりしたんスよね」

「え……?」

「昨日の女の人と店長がどんな関係なのかはわかんないスけど、店長のこと、信じてあげてくださいよ。俺、店長のこと好きだし、仕事がんばってるのも知ってっから、幸せになってもらいてぇーんス」

 辻は前を向いたまま、ぶっきらぼうな顔で缶コーヒーを口に含んだ。

 圭と出会ってから、アイラは他者からの気遣いがわかるようになった。辻は、本当は田丸菜奈ではなくアイラを待っていたのだろう。

「ありがとうございます。辻さんも優しい方ですね」

「え? いや、俺は、そんなんじゃ……」

 アイラに天使の笑顔を向けられて、辻は顔をほんのり赤くした。

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