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第23話


   〇

 

 薙ぎ払った剣が怨念を断つ。

 アンドレの拳が悪鬼を粉砕する。

 そんな行為にどれほどの時間を費やしてきたのか、彼女は覚えていなかった。

 においも、音も、感情も、細部を何も記憶していない。思い出がないからだろう。

 セブンス。

 覚えているのは自分がそう呼ばれていたことくらいだ。七十二天使はナンバーで区別されていた。

 これが世界を保全するための重要な役割であることは理解していた。不満があったわけでもない。

 ただ、自分は知ってしまったのだ。

 戦闘が終わり、世界の浄化が始まる。

 その片隅で、彼女は傷ついた翼で自分の体を抱く。隠れるように、その中で彼にもらった書物を開く。

 言葉は尊く、文字は美しい。

「ケイ……」

 気づくと涙を流している。いつものことだ。

 彼に会いたかった。

 もしそれが、短い限られた時間になるとしても——。


「……………」

 夢を見ていたようだった。

 アイラは柏木圭の部屋で横になったまま膝を抱えて眠っていた。腕の中には圭が寝る際に着用しているスウェットがある。

 読書中にふと寂しくなって、圭の寝間着を抱きしめたのだった。それで安心して眠ってしまったらしい。

 ヴァルキリーの任務中だったら厳罰ものだな、とアイラは思う。

 上体を起こして伸びをする。

 夕暮れ時だ。今日も圭の帰りは夜の九時を回るだろうが、お風呂は待たずに先に済ませておくように言われている。そろそろ夕食の準備をしないと間に合わない時間だった。

 圭の店で雇ってもらっているけれど、勤務時間は圧倒的に圭の方が長い。彼の両親が家を空けている間、夕食の準備は当番制ですることになっていた。あらかじめ一週間分の献立も二人で決めてあるのだ。

「え~と……」

 お風呂を済ませてパジャマに着替えてから、お味噌汁とゆで卵作りにチャレンジする。入浴後だと、メイド服を圭に見せられないのが残念である。

 メインディッシュは湯煎するだけのハンバーグで、サラダもカット野菜にゆで卵を乗せるだけでできるようにしてある。圭が、アイラが当番の時には難しい料理をしないで済むように調整してくれていることを、彼女は知っていた。

 圭はやさしい人だった。

 料理は少し慣れてきた。

 二人きりで生活することを、人間の世界では同棲と言うらしい。いやいや、夫婦なのだから新婚生活? でいいのではないだろうか。

 そもそも婚姻には儀式が必要なのではないかと、アイラはふと思う。圭が帰ってきたら聞いてみよう。

 しかし儀式の有無など些末なことだ。この間、彼は私を助けるために「奥さん」と叫んでくれたのだ。

「ただいまです」

 玄関が開いて圭の声が聞こえた瞬間、アイラの心と体はふわりと軽くなった。

「おかえりなさい、圭様」

 彼の顔を見る。

 途端に、今度は胸の奥がキュッと締めつけられる。

「お風呂、ちゃんとあったまりました?」

「はい。とてもいいお湯でした。教えていただいた温泉のもとのおかけでほくほくです」

 今度一緒に入りたいです——という言葉を、アイラは飲み込んだ。前の時のように困らせてしまうのは嫌だった。

 先日一緒にお風呂でシャワーを浴びた時から、圭は自分と微妙に距離をとっているように思えた。

 今だっていつも通りやさしいし、丁寧に接してくれている。だが、深いキスは初デートの後に一回したっきりだ。

 あの時、浴室で何か恥をかかせるようなことをしてしまったのだろうか?

「ん……」

 それでも、圭からのただいまのキスはアイラに多大な幸福感をもたらした。

「お味噌汁、今日はうまくできましたね」

 食卓で圭が朗らかな笑顔を浮かべる。

「へへ~」とアイラの頬が緩んだ。

 食事の後、圭がお風呂に入っている間、アイラはリビングのこたつでまた本を読んでいた。

 今読んでいるのは、血のつながらない妹との恋愛を描いた学園物のラブコメディだった。同じ屋根の下、家の中でどのように振舞えば相手に喜んでもらうことができるのか、そのノウハウを学ぶことができる良書である。しかし義妹よ、お風呂に一緒に入れば意中の相手をメロメロにできると書いてあったのに失敗してしまったではないか、どうしてくれる、とアイラは思っている。

「少し寒いですね」

 入浴を済ませた圭が膝掛けを持ってきてくれた。

 圭はとても、やさしい人だった。

「ありがとうございます」

「ホットミルク、飲みませんか?」

「はい。いただきます」

 電子レンジで温めたホットミルク入りのマグカップを、圭はこたつ机の上に並べた。それは先日のデートで二人で選んだお揃いのマグカップだった。

 圭はアイラの隣に腰掛け、リモコンのスイッチでテレビの電源を入れた。本の仕入れは世の中の様々な事情と関わりがあるので、情報はテレビでもネットでも定期的に仕入れるようにしているらしい。

 マグカップを手に取り、一口含む。圭の方へ手を伸ばすとそっと握り返してくれて、内と外からじんわりとあたたかさが広がっていく。

「今度の本も、面白いですか?」

「はい。ライトノベルに出てくる女性は積極的な方が多いのですね。参考になります」

「単に男に都合がいいだけかもしれません。女性向けのラノベだと、イケメンしか出てこなかったりしますし、似たようなもんですね」

「ひとつ質問があるのですが」

「また読めない漢字でもありましたか?」

「いえ。お話しの中に『血のつながった妹などこの世には存在しない』と書かれてあるのですが、本当なのでしょうか?」

「それ、信じちゃだめなやつです」

「そうなのですか? 基本、天使の世界に血縁というものは存在しませんが、仲間のことは『シスター』と呼び合いますので、人間界でも似たようなルールが存在するのかと思ったのですが」

 圭はいつものように苦笑いした。むむ、なぜだろう?

 静かな時間だった。

 圭はテレビの音量を絞って、アイラは膝の上に置いた本を読み耽っている。

 ふと肩に圭の頭が触れて、アイラは顔を上げた。

「圭様?」

 圭は寝息を立てていた。

 自分の傍で眠ってくれることが、アイラはたまらなくうれしかった。

 起こさないように注意しながら、自分の膝の上に圭を寝かしつける。アイラは読書を中断して、リモコンでテレビの電源を切った。

 静かな時間の中、彼の頭を何度もなでる。

 ——好きだなぁ。

 と、アイラは思った。


   ◯


 夕方のレジ点検をしながら、僕は小さく唸っていた。別にレジの金額が合わなかったわけではない。

 昨日もアイラさんの膝枕で眠ってしまった。最近、夕食の後にけっこうな頻度でアイラさんの肩や太ももにお世話になってしまっている。風呂場での一件以来、僕は深い自己嫌悪に陥っていて、ここ数日は煩悩を断ち切って仕事に没頭しているつもりなのにもかかわらず、この体たらくである。

「レジ誤差っスか?」

 辻君が出勤してきて、僕は眉間の皺を解除した。

「いや、なんでもないんだ」

「辻さんに引き継ぎ後、退勤します」

 店内整理を終えたアイラさんが戻ってきて、辻君にペコリと頭を下げた。

「お疲れ様」の後に、小声で彼女に伝える。

「今日は早めに上がって、パスタ作りますから。母直伝のツナのオイルパスタなので、期待しておいてくださいね」

「はい」

 コクコクと頷くアイラさんの頬が緩む。

 レジカウンターから僕が出たタイミングで、お客さんが入ってきた。

「いらっしゃいま……」

 僕は最後まで挨拶を紡げなかった。

「こっちに帰ってきたから、来ちゃった」

 その女性は、僕をまっすぐ見つめながら満面の笑みを浮かべた。

 おっとりした童顔のロングヘアー。髪は明るめのブラウンに染めていたが、腰まで伸びたストレートヘアーを見間違えるはずがない。

「圭様……?」

 息が苦しい。

 心臓がバクハグと早鐘を打ち始め、これから起こる事態を僕に警告している。

「久しぶり、けーくん。会いたかった」

 早瀬(すばる)

 彼女はアイラさんの目の前で、僕の首に両手を回して抱きついた。

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