第21話
助手席のアイラさんがすぅすぅと寝息を立て始めて、僕はカーステレオの音量を絞った。
ビル・エヴァンスの「ポートレイト・イン・ジャズ」。父が好きだったジャズの名盤が、星の煌めく夜道をやさしく照らす。
「むにゃむにゃ……」
マンガみたいな寝言をもらす人を初めて見た。
今日の戦利品を詰め込んだトートバックを大事そうに胸に抱えながら、アイラさんの寝顔はうれしそうだった。
彼女は動物が肘を立てて横に寝そべっているシュールなフィギュアのガチャガチャが気に入って、結局五回も回していた。空のカプセルも記念に持ち帰ると言って聞かず、カプセルは車が揺れる度に彼女のバックの中でコロコロと音を立てている。
こんなデートでよかったんだろうか。
備品の買い出しついでにショッピングモールへ寄るだけの、これをデートと言っていいのだろうか?
「うふふ」
楽しい夢でも見ているのか、アイラさんの口の端がにゅっと吊り上がる。
好きな人が助手席で寝てくれている。信号で停まる度、僕はその寝顔を楽しみに見る。やさしい夜の世界には、僕と彼女とピアノトリオの旋律だけがある。
あぁ、そうか。
「しあわせ」とは、こういうことを言うのだ。
居無井町へ近づくにつれ、車の数が減っていく。山間に差し掛かる手前、道の脇に自販機を見つけた僕は、車を路肩に停車させた。ここを過ぎると居無井町に入るまでコンビニすらないのだ。
自販機でホットのカフェオレとレモンティーのペットボトルを買って車へ戻ると、目を覚ましたアイラさんが僕を見上げていた。
「圭様」
「すいません、起こしてしまいましたね」
念のため、アイラさんの分も買っておいてよかった。
両手のペットボトルを顔の前に差し出すと、彼女はレモンティーを受け取って両手で包み込んだ。
「ぽかぽかです」
「飲めばもっとあったまりますよ」
フタだけ開けてあげると、彼女はふぅふぅとおちょぼ口でレモンティーを口に含んだ。
「今日は全部、ありがとうございました。全部……とても、楽しかったです」
そんなことを、言ってくれる人がいる。
「休みが合う時は……」
誘うのは、少し勇気がいった。
「また、行きましょうか」
「はい。圭様と、もっとデートしたいです」
アイラさんの視線はまっすぐ過ぎる。
僕はまた、照れて目を逸らしてしまう。
「あの……今日はもう、おしまいですか?」
「え?」
ペットボトルのフタを開けようとしていた僕の手が止まる。
「たくさん、いろんなものが見られて、買えて、うれしかったけど……い、一番、欲しいの……まだ、もらってません」
ごにょごにょと俯きながら、アイラさんはシートベルトを外した。
ポツンと寂しい街灯が、アイラさんの不安そうな顔をわずかに照らしている。
確認しなくたってわかる。この道を走る車なんて滅多にない。
「アイラさん……」
先に身を乗り出したのは僕の方だった。
僕がアイラさんの肩に手を添えて、彼女はそっと目を閉じた。
「あ……」
くちづけが重なる。
カフェオレを飲む前でよかった。おかげで、甘くてすっぱいレモンティーとアイラさんの唇の感触を同時に味わうことができる。
助手席までの距離が遠い。抱きしめられない。
それがかえって、僕とアイラさんを離れられなくした。
「もっ、と……」
吐息と共に、アイラさんのささやきが流れ込む。
「アイラさん……」
一瞬の葛藤があった。
気づいた時には、僕は彼女の口内へ自分の舌を挿し込んでいた。
「ん……」
アイラさんの全身がピクンと跳ねる。
怖くて目を開けられない。僕は祈るようにキスの角度を深くした。
「圭、様……」
アイラさんの舌先が僕の先端にキスをして、今度は僕の全身がピクンと跳ねた。
唇のやわらかさとは対照的に、彼女の中はあたたかくうねっていて、別の生き物のようだった。
「ん……ちゅ……」
「は……ん……」
むさぼるようにくちづけを交わす。互いの口内で舌を絡め合い、口をだらしなく開いて先端を舐め合った後、唾液を飲み込みながらまた深く結びつく。
息さえ続けば、僕とアイラさんはいつまでも互いに吸いついたまま、離れなかっただろう。
「は……は……」
別離が名残惜しい。離れた後も、僕らは顔を上気させたまま見つめ合った。
「もう……おしまいですか?」
首を横に振って、僕が頬をなでる。
アイラさんはふわっと浮かび上がるように僕の席へ飛び移り、膝の上にまたがりながら、しがみついた。
「あと、一回だけ……」
「うん」
曲が切り替わり、「恋とは何でしょう?」が流れ始めた。知的な美しさの中に若く未熟な大人の感性を内包したピアノトリオの旋律が、僕らを甘く包み込む。
遠くから車のエンジン音が響いて、僕はシートをゆっくりと後ろへ倒した。




