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第17話

「ただいま」

 です——と、居間に入った後、付け足す。

 自分の家に帰ってきたのに敬語を使うのは妙な感じがしたが、アイラさんの方が先に帰宅しているのだから仕方がない。

「おかえりなさい、圭様」

 台所の方からアイラさんの声がして、ドキリとした。

 ルームウェアに着替えたアイラさんがキッチンに立っていた。あったかそうなもこもこのパジャマ姿。振り返った後、僕を見て緩んだ笑顔がキュートだった。

 もう夜の十時なのに、彼女はフライパンで晩御飯を作ってくれているようだった。

「帰りが遅くなって、すいません」

 新婚の夫のようなことをのたまう。

「とんでもありません。お仕事、お疲れさ……」

 言い切る前に、彼女が手にしていたフライパンから爆炎が巻き起こった。

「⁉︎ ふえぇ~ッ!」

 珍しくアイラさんが狼狽えている。フライパンの下から炎がはみ出しているので、火力が強すぎたのだろう。

「あわわわわわっ!」

「落ち着いてください、アイラさん」

 彼女からフライパンを取り上げ、コンロのスイッチをオフにする。これは明らかに油を入れ過ぎだ。

 僕は冷静にシンクのキャビネットからフタを取り出し、フライパンに被せた。

「大丈夫ですか?」

「申し訳ありませぇん……」

 眉を八の字にして、アイラさんはへなへなと僕の腕にしがみついた。

「火傷、してないです?」

「はいぃ、ケガは大丈夫です……」

 キッチンに並べられた食材を見る。多分、オムライスを作ろうとしてくれていたのだろう。ぶつ切りの鶏肉とグシャグシャに砕けた卵の殻に格闘した跡があった。

「せっかくなので、一緒に作りましょうか?」

 ジャケットとリュックを二階の自室へ放り込んでから、僕はエプロンを着けて台所に立った。

「すごいです」

 ポカンとした表情で、アイラさんは僕の手元を見ていた。

 久しぶりに作ったけど、チキンライスはうまくできた。

「昔は店の方がよく繁盛していたので、父も母も帰りが遅くて、料理はよくしてたんです。姉はアクティブで家事手伝いはダメな人だったので、晩御飯はいつも僕の仕事でした」

 アイラさんは居間からメモ帳を持ってくると、フライパンのチキンライスを見ながら走り書きを始めた。

 本当に、真面目な人だな。

「卵、一緒にやりますか?」

「い、いいんですか? できるでしょうか?」

 アイラさんがおずおずとフライパンの取っ手を握る。

 少し迷ったが、僕は溶き卵をフライパンに流し込んだ後、彼女の手に自分の手を重ねた。

「あ……」

 そんな声を出されると、意識してしまう。

「中心に火が通りにくいので、膨らんできた部分だけを菜箸で潰すようにして……」

 出来上がったオムライスと、母が買い置きしておいてくれたカットサラダとインスタントの味噌汁を食卓に並べる。

「はふはふ、もぐもぐ」

 アイラさんの食べっぷりを、僕は向かいの席からしばらく眺めていた。

 昨日ファミレスでパスタを食べた時も思ったけど、アイラさんはとても幸せそうにご飯を食べる。いや、食事だけじゃない。オフの時の喜怒哀楽がわかりやすいのだ。六年前の無感情な彼女とのギャップに、僕はただただ驚いていた。

 それとも。

 ——こんな無邪気な振る舞いは、僕の前だけなんだろうか?

「あ、ごめんなさい」

 僕の視線に気づいて、アイラさんはスプーンを口へ運ぶ動きを止めた。頬が少し膨らんだままだ。

「はしたないですね。とても美味しくて、つい……」

「いや、気持ちいい食べ方で、僕はうれしいですよ」

「天界では食事が必要ないので、ついつい食べすぎてしまいます」

 子供みたいですね、とアイラさんが笑う。

 彼女の笑顔を見ると、僕はいつもやさしい気持ちになる。

「ほっぺた……」

 僕は少し身を乗り出して、アイラさんの口元についたご飯粒を親指で取った。頬にケチャップが付着したままで、本当に子供のようだ。

「あ……」

 わざとなのか無意識なのか、アイラさんは僕の親指にキスをするようにご飯粒を吸い込んだ。

 ちゅ……と、艶かしい音がリビングに響く。

「……ごめんなさい」

「いえ、別に……」

 妙な雰囲気になって、二人であたふたする。

 これは、アイラさんも意識していると考えていいんだろうか?

 テーブルがなければ、僕はアイラさんを抱き寄せて唇を奪っていたところだった。


 ——大丈夫。うまくやれよ、圭。

 深呼吸をひとつしてから、僕は自分の部屋のドアを開いた。

 布団が二組、距離を置いて敷いてある。お風呂に入る前に、僕があらかじめ用意しておいたのだ。

 手前の敷布団にちょこんと腰掛けて文庫本を読んでいたアイラさんが、風呂上がりの僕を見上げてほほえんだ。

「疲れはとれましたか?」

「とても。いいお湯でした」

 アイラさんの傍には、僕が愛用しているノートパソコンがあった。勤務時間外に僕に仕事させないようにという、母から下された命令を忠実に守っているのである。

 アイラさんがまたこんな時間に僕の部屋にいるのは、その母からの指示があったからだった。

「仕事はいけません」

 アイラさんは僕をじっと見つめながら言った。

「わかってますって。歯だって磨いてきましたから」

 こくこくと満足そうに頷くと、アイラさんは左手で自分の隣をぽすぽすと叩いた。

 本棚の端に溜めてある積読の中から、読みかけのままにしていたミステリ小説を抜き取ってアイラさんの隣に腰を下ろす。

 寝る前に読書の時間を作りたいと提案したのはアイラさんの方だった。姉の部屋で一緒に本を読んだ時間が楽しかったらしい。

 僕としても、店長になってからは仕事にかまけて読書の時間を確保していなかったので、こういう時間はありがたかった。

「今、何巻目ですか?」

 アイラさんが読んでいる『ほしきみ』を見ながら、僕は言った。

 その時、アイラさんのパジャマの襟元から胸の谷間が目に飛び込んできて、僕はすぐに目を逸らした。

 やわくてあたたかな——ぼくはその感触を知っている。

「六巻目です」

 思ったよりもゆっくり読み進めている。「一気に読むのもいいですけど、じっくり文章を味わうのも乙ですよ」と僕が提案したことを守っているようだった。

 ただ……六巻か。

 ——主人公と美琴が初体験する巻だよな。

 アイラさんが脚を三角座りにして読書モードに入ったので、僕も単行本のスピンを挟んでいるページを開いた。

 静かな時間だった。

 僕とアイラさんがページをめくる音以外は何もない。それぞれが物語の中に没頭している。

 本のページをめくる乾いた音が、僕は昔から好きだった。

 途中、少し肌寒くなってきて、僕は椅子にかけてあった自分のパーカーをアイラさんの肩からかけた。

「ありがとうございます」

 リモコンでエアコンの温度を一度上げてから、もう一度アイラさんの隣へ座り直す。クローズド・ミステリの連続殺人。トリックと真犯人がわかりそうなところに差し掛かって、僕は思わず前のめりになった。

「あの……」

 本に夢中になっていて、アイラさんが耳元に顔を近づけていることに、僕はまったく気づいていなかった。

「え……? うわっ、すいません! どうしました?」

 足を崩したアイラさんが、頬を染めながら俯いている。

「ど……ドキドキして、集中できません」

「ほしきみ、ですか?」

 栞が飛び出しているのは後半部分。多分、主人公と美琴がベッドで盛り上がっているあたりで間違いない。

「そのあたり、けっこう描写が過激ですもんね。著者の気合いも違うというか」

「違います」

 顔を上げた彼女の瞳が潤んでいる。

「圭様が、隣にいるから」

 僕はそのアンバランスなあどけなさと美しさに息を呑んだ。

「キス……」

 アイラさんは言い切らなかった。また恥ずかしそうに俯いしまう。

 初めてだったのに、昨日はとんでない回数をしてしまった。だから今日は、意識してアイラさんの唇を見ないようにしていた。

 そのことを見透かされた気がして、僕は彼女の頬へ手を伸ばした。

「あ……」

 手の平で包み込むように彼女の頬をなでた後、親指の腹で彼女の唇の端に触れる。

 アイラさんが顔を上げるのを待ってから、僕は彼女を抱き寄せた。

「ん……」

 触れ合う瞬間、まだ、震えてしまう。

 一度だけだったが、僕らは長い時間をかけて互いのリップを味わった。

 告白した翌日に一緒の部屋で寝るだけでも気が狂いそうなのに。

 こ、これ以上はだめだ……。

 物事には順序というものがある。

 店長として。

 大人の男として!

 ——ハーレムもののチャランポランな主人公のようなことは、僕は絶対にしない……!

「圭様……」

 なのに、アイラさんは僕から離れるのを嫌がるようにしなだれかかってきた。

「ご飯の食べ方は子供っぽいかもしれないですけど。私……子供じゃ、ないですから」

 チャランポランな主人公のようなことは……。

「いいですよ?」

 絶対に、しな、い……?

 僕の背中に両手を回して、アイラさんは僕の耳たぶに舐めるようなキスをした。それは『ほしきみ』第六巻第四章に書かれている一文。

〝美琴が耳にキスをする時、彼女は常に自分を待っている。その事実に、正樹はようやく気がついた〟

「う……ぉ……」

 ビリビリと耳から全身に電流のような刺激が流れる。

 気づくと、僕はアイラさんを押し倒し、覆い被さっていた。

 アイラさんは抵抗することなく、両手を赤ん坊のように外側へ投げ出している。

「アイラ、さん……」

「触って、ください……」

 ぼくは震える手で、アイラさんのパジャマのボタンに手をかけた。

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