第16話
「先月の返品率、少し高いですね……」
コミックの新刊とメディア化の棚を二人でチェックしながら、辻君は肩を落とした。
「まぁ、アニメ化のタイトルの仕入れは博打みたいなところがあるからね」
慰めるが、辻君はタブレットの数値を見たまま顔を上げなかった。真面目だなぁ。
アニメ化や実写映画化するコミックの出版社の販売シェアはライトノベルや新文芸とは異なり、総合版元であるS社やKO社のいわゆる少年コミック・青年コミックが強く、ほとんどこの二社の二強と言っていいだろう。客層の間口が広いコミックは、今も昔も書店の売上の大黒柱である。コミックの新刊は仕入れの融通が利かないジャンルではあるけど、扱う額が大きいから責任も重大なのだ。
「新刊の追送も、少し追いかけ過ぎかもしれないね」
「工場の景気、悪いんスかね?」
「どうかな。まぁ、コミックだって毎年購買率が落ちてるから」
隣町に大手自動車メーカーの大規模な部品工場があり、そこで働く契約社員の人たちはうちの大事なメイン顧客だった。父の時代に駐車場を拡充したら、コミックの月の売上が一・五倍になったという逸話がある。
「陳列の方法を少し変えてみようか。大手レーベルの比率を……」
その時、アイラさんが僕らの後ろを通り過ぎて、僕は思わず口籠った。
背筋をピンと伸ばして、いつも通りのアイラさんだ。昨日の展望台でのことを気にしている素振りは見えない。
「店長?」
「え? あぁ、ごめん。ちょっと、考え事」
いかんいかん。
いくら両想いを確認できたからって、仕事に私情を持ち込むなんて言語道断だ。アイラさんを見習え。
展望台からの帰り道、ファミリーレストランで簡単に夕食を済ませて帰宅した僕を待っていたのは、母からの電話による罵詈雑言だった。
まぁ、当然といえば当然だ。息子が倒れたと甲斐田さんたちから連絡を受け、当の息子からは「後で電話するから」とメッセージがあったきり夜まで連絡がなかったのだから、ガミガミ怒りたくもなるだろう。
「なぁ~んか怪しいわねぇ」
僕は終始取り繕うのに必死だった。まさかアイラさんとキスしていて電話するのを忘れてただなんて、口が裂けても言えるわけがない。
「運営状況を見直せ」
という、元柏木書店副社長としての労働環境是正命令を最後に電話が切れた時には、二時間が経過していた。その間にアイラさんはお風呂と歯磨きまで済ませ、居間のこたつですうすぅと寝息を立てていた。
お姫様抱っこで姉の寝室へ連れていきながら、正直なところ、僕はほっとしていた。今夜下手にアイラさんに迫られたら、襲いかからない自信がなかった。
告白したとはいえ……いや、告白したからこそ、家に二人だけのこの状況では、僕が節度を守って接しなければならない。
とはいえ。
——同棲……だよな、これ。
「店内整理、完了しました。レジを交代いたします」
「あ、はーい。お願いします」
田丸さんはレジから出てティーンズの売場へ向かったが、その後しばらくしてコミック売場を一巡しながらこちらへ歩いてきた。
「なんか……キスシーンっぽい表紙の本がやたらと面陳されてるように感じるんですけど。うちの売場ってこんなに艶めかしい感じでしたっけ?」
レジカウンターからガタンと音がして振り返る。
アイラさんが僕の方を見ながら「やってしまいました」と言わんばかりにぺろっと舌を出していた。
「ん? これって、店長が前におんなじようなことやってたような……」
田丸さんはレジの方を見た。
「申し訳ありません。昨日店長にキスをしていただいたので、無意識にやってしまっていたようです」
「えぇ⁉︎」
田丸さんと辻君が、今度は同時に僕の方を振り返った。
「え、っと……」
やってない! ——とは言えなかった。
「い、一回だけ! 一回だけだから!」
む……と、アイラさんの左の頬がぷくぅ〜と膨らむのが見えた。
「違います。三十二回です」
「そんなにッ⁉︎」
「すげ……」
一瞬で顔面が沸騰する。頭から湯気が出ているのが自分でもわかる。
「アイラさんもだけど……」
スタコラと店の奥へ逃げる僕の背後から、田丸さんが辻君にささやく声が聞こえた。
「店長もけっこう変わってるよね」
こんなんで、僕は大丈夫なんだろうか?
明日は僕もアイラさんもシフトが休みの日だ。
昨日はドタバタしたけど、今度こそ、二人だけの夜が来てしまう。




