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第15話

 病院のベッドで目を覚ました時、アイラさんは僕の胸の上で眠っていた。

 抱きかかえるように両手を僕の背中へ添え、翼もまた僕の上半身を包み込んでいる。

 起こすつもりはなかったのだが、翼の羽が鼻先をくすぐって、僕は小さくくしゃみをしてしまった。

「圭、様……?」

 アイラさんが体を起こす。

 僕の顔を覗き込んだ彼女は、安堵したように目を細めた。

「よかった……」

 僕も上体を起こす。

 左の側頭部に包帯が巻かれている。倒れた時にぶつけたらしい。

「すいません。勤務中に倒れたんですね、僕」

 アイラさんはコクコクと頷いた。

 救急車で運ばれる前、一度うっすらと意識が戻って、救急隊員の人と何事か話したことは覚えている。

「店は……営業は、大丈夫なんでしょうか?」

「甲斐田様たちがお昼も入ってくださいました。今日のシフトは大丈夫だから、店長は気にせず休めとの言伝です」

 従業員にマネージングをさせるだなんて、これじゃあ店長失格だ……。

「とりあえず、翼をしまってください」

「あ……申し訳ありません。天使の羽には自浄作用があるので、使わせていただきました」

 背中に翼を収容した後、アイラさんはじっと僕の目を見ていた。

「あの……そんなに見られると、恥ずかしいです」

「とても、心配しました」

 そうだよな。

「ごめんなさい」

 僕は素直に頭を下げた。

 それでも彼女は、怒ったような顔で僕から目線を逸さなかった。

 顔が近い。

「おほん……」

 部屋の入口から聞こえた咳払いで、僕らはようやく体を離した。

「まったく、最近の若いもんは……」

 看護師さんが呆れた顔で腰に手を当てていた。


「はぁ……」

 展望台の手すりに額を当てながら、僕はそっとため息を吐き出した。

 僕が倒れた原因は過労と寝不足ということだったが、念のために検査と点滴などの処置をしてもらい、病院を出た時には夕方になっていた。

 その後店の方に顔を出したのだけど、そこで甲斐田さんたちにこってり絞られてしまったのである。

 シフトを乱したことを責められるかと思ったら、そうではなかった。

 曰く、

「一人で全部やるな!」

「親と嫁を悲しませるな!」

「そもそも休めって言ったのに店に顔出すな!」

 クレーム以外であんなに怒鳴られたのは初めてかもしれない。儲からない商売だけど、うちの店はスタッフに恵まれている。

「大丈夫ですか?」

 隣からアイラさんの心配そうな声が聞こえて、僕はすぐに顔を上げた。

「やはり来ない方がよかったのでは……」

「いいんです。どうしても、来たかったから」

 大竹山の展望台に誘ったのは僕の方からだった。父の車を拝借してここまで来たけど、陽はすでに山の向こうへ消え、僕たち以外に人はいなかった。

 マジックアワーの彼方、遥か天空には星々が煌めき始めていた。

「このクレーターは、隕石のせいじゃなかったんですね」

 左前方の巨大な陥没。六年前の騒動で破壊された展望台は、クレーターが見える位置に新設されていた。

「圭様」

 アイラさんの双眸が大きく見開かれる。

「まさか……」

「思い出しました。ずっと忘れてしまっていて、すいません」

 アイラさんは沈痛な面持ちで首を横に振った。

「謝るのはわたしの方です。天界の存在を無闇に人間の世界に持ち込むわけにはいかなくて、あの時は皆さんの記憶を改竄せざるをえませんでした……」

 少しの沈黙の後、アイラさんは静かに語り始めた。

「強力な悪霊でした。六年前、その悪霊と相討ちになったわたしは人間界に落ちてしまったのです」

「柏木書店の前に落ちたところを、僕が目撃してしまったんですね」

「そうです。天界では、アークエンジェルの許可なく天使が人間に接触することはタブーとされています。本当は立ち去るべきでした。ただ、微量でしたが悪霊の残留思念も近くに落下していることはわかっていましたし、このあたりの地理も不明な上、戦闘のダメージも蓄積されていましたので、闇雲に動き回るのは得策ではないと判断しました。それで、圭様のご自宅にお世話になることにしたのです」

 大竹山に落下した悪霊もまた、周りに被害を出し始めていた。だからアイラさんは、自身の体が回復するのを待ってから悪霊を駆逐した。

「卑怯、ですよね……勝手に巻き込んで、記憶まで消しておいて、また接触してくるなんて」

 夜の帳が下りる。

 外灯がスポットライトのように僕らを包み込んでいる。

「流星群……タイトルを読めるようになるだけで、一年以上かかりました。圭様に出会って、わたしは初めて『楽しい』という感情を知ったのです」

 アイラさんの声は、震えていた。

「わたしはもう一度、あなたに会いたいと思うようになりました。会って、この感情の正体を知りたかった。だから……」

「僕も……今ならはっきりわかります」

 アイラさんの方に、まっすぐ向き直る。

 彼女の瞳が僕を見据えたまま、儚く揺れている。

 僕は小さく息を吸い込んだ。

「僕は、アイラさんが好きです」

「え……?」

「また、出会えてよかった」

 言った。

 言ってしまった。

「……………」

「……?」

 あれ?

 アイラさんは、驚いたような、困惑したような、よくわからない表情をしていた。

「アイ、ラ……さん?」

「うそ……うそです。うそに決まってます」

「いや、ちょ……え? う、うそ?」

 アイラさんの瞳に、ぶわっと涙を溢れた。

「だって、そんなことありえません。本に書いてあった通りにしても、一度もうまくいかなかったのに」

「えぇ?」

「裸を見せても、い……いやがられるし。わたし置いて先に出勤しちゃうし……。妻だって言ってるのに、全然呼び捨てにしてくれないし」

「アイラさん⁉︎」

 まさか。

 今までのこと全部、気にしてたのか⁉︎

 伸ばした僕の手を、彼女はイヤイヤをするように振り払った。僕のために結ってくれているポニーテールが左右に揺れた。

「夜、だって、が……がんばって、誘……さそった、の、のに……にげ、るし……そっぽ、むく、し……。疲れとれた、て……い、言ったのに、うそ、つくし」

「嘘なんかじゃ……」

「心配したもん……! いきな、り……たおれ、るから!」

 嗚咽をもらし、顔をくしゃくしゃにするアイラさんに、僕の胸の奥がキリキリと痛んだ。

「違うんです、アイラさん。あれは全部……!」

「いっばい、本、読んだ! から……も、う、し、知ってます……。わたしみ、たいなの、は……お、重たい、とか、めんどく、さい、とか、言う、って……う、うぅ……」

 溢れる涙もそのままに、アイラさんは泣きじゃくった。

「こんなの……好きになって、もらえるわけ、な、ない……」

 もう、我慢できなかった。

 僕はアイラさんをきつく抱きすくめた。

「アイラさん」

「ふ、ぇ……?」

 僕とアイラさんの視線が絡む。

 少しでも嫌がられたら、やめるつもりだった。

 しばらく見つめ合った後、しかしアイラさんは僕の背中にそっと両手を回して、弱々しく力を込めた。

「圭、様……」

 鼻の先が触れ合う。

 二人薄く目を閉じて。

 顔を近づけたのは、どちらが先だっただろう。


 真面目で臆病なキスだった。


「ん……」

 頭の奥が甘く痺れる。

 アイラさんのやわらかな唇の感触以外、世界には何もなかった。

 怯えたように小さく震える彼女の腰を、僕はさらに抱き寄せた。

 角度をつけて、くちづけをさらに深くする。

 彼女の表情が「とろん」ととろけた。

「ふ……ん……」

 どのくらいそうしていただろう。

 やがて息が続かなくなると、ようやく僕らは唇を離した。

「は……は……」

 息が切れているのを見られるのが恥ずかしい。

「圭様……」

 涙がこすれるのもお構いなしに、アイラさんが僕の頬に自分のほっぺたをすり寄せてくる。

「わたしも、好き……ずっと大好きです」

「僕も、好きです。思い出したから、言うわけじゃないから。その前から、好きだと思ってたから」

「はい……」

 なんて、あたたかい。

 僕らは余韻に浸るように互いの背中に手を回したまま、抱き合っていた。

「……最初は、顔を見るだけでいいと思ったんです。近くで、あなたを見ることができるだけで」

 僕の胸に顔をうずめたまま、アイラさんは言った。

「でも、面接で話をしたら、欲が出てきて……。凪様の部屋で見つけた圭様のお話が、あなたとわたしのことだと気づいた時は、うれしすぎて気が狂うかと思いました」

 顔を上げたアイラさんの吐息が、首筋をくすぐる。

「それで、我慢ができなくなって、アプローチしようと。でも、わたしはやり方を知らないので、これ以上嫌われたら、やめにしようと思っていました……」

「すいません。あれはいやだったんじゃなくて、戸惑っていたというか……。あ、でも、お願いですから、家でしてくれたこと、僕以外にはしないでくださいね」

「はい。絶対にしません」

 アイラさんが上目遣いに僕を覗き込んで、ドキリとした。

「さっきの、その……き、キスは……」

 アイラさんは恥ずかしそうに言い淀んだ。そんな顔をされたら、こちらもどぎまぎしてしまう。

「は、はい……」

「『ほしきみ』では、たくさんしていたと思うのですが……真似しない方がいいですか?」

「いえ……」

 もう一度僕が抱き寄せて、アイラさんは顔を赤らめた。

「たくさん、してください。したい、です……」

 アイラさんの両手が僕の背中から首へと移る。

「ん……」

「ん……ん……」

 寂しい居無井町の夜景を背景に、僕らは飽きることなく唇を重ね続けた。


 必死だった。

 必死で、だけど、浮かれていた。

 だから僕は、この時とても大切な何かを見落としていることに気がつかなかった。

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