第11話
僕の左側、布団の中で向かい合うようにアイラさんが横になっている。
少し手をずらせば触れ合う距離。
軟弱な自分の意志に嫌気がさす。
椿のシャンプーの香りが鼻先をくすぐって、僕は甘い誘惑に目眩がしそうだった。
「約束を破ってしまって、申し訳ありません」
「いやっ、だ、大丈夫ですよ。眠れない時もありますもんね」
何が大丈夫なんだ。眠れない時に添い寝する関係ってなんだ?
「……………」
やはり浮かない顔で、アイラさんは両手を胸の前で緩く握り締めている。
あれ?
気づくと、僕はそんな彼女の指先に自分の両手を重ねていた。
「圭様……?」
なぜだろう。
ずいぶん前にも、こんな風に彼女の手を取ったことがある気がする。
「昔……高校生の頃の話なんですけど」
さっき姉の部屋でアイラさんを慰めながら考えていたことを、僕はぽつぽつと語り始めた。
「はい……」
「すごく好きなラブコメの小説があったんですね。まぁ、正確にはハーレムもののラノベだったんですけど。主人公と僕が気に入っていたヒロインが結ばれて、それがうれしくて、この物語は大人になっても忘れない一生の宝物になるなと思ってたんです。今読み返すと大した作品ってわけでもないんですけど、自分が主人公になったつもりで、没頭してたんです」
アイラさんは真剣な表情でふむふむと頷いた。
「それで、大学生になった頃に続編が発売になったんですよ。でもその続編が本当に酷くて、僕が好きだったヒロインは前作の主人公と別れたことになっていて、今度は続編の主人公とそのヒロインが恋仲になる話の展開になっていたんです」
「それは……」
「評判が良くて、アニメやゲームにもなってましたから、大人の事情で一番人気のあったヒロインを続編にも出すことにしたんでしょうね。でも、ショックだったな。当時はこんなこと話せる友だちもいなかったから、誰かに話したりもできなくて。話したって『たかがフィクションの話になに入れ込んでるんだ』って言われて終わりだっただろうし……ずっと一人で何日も落ち込んでたのを覚えてます」
なんでこんな恥ずかしい話をアイラさんにしているんだろう?
「アイラさんの気持ち、僕、わかりますから。次の休みの日に、たくさん聞かせてください。アイラさんが感動したところとか、泣いてしまったところとか、興味あります」
「圭様……」
どこか強張っていたアイラさんの頬が、少し緩んだ気がした。
本当に、お互い二十歳を超えた男女が、こんな布団の中でなんの話をしているんだか。
でも、アイラさんとこんな話をするのは、悪い気持ちはしなかった。
「だから、今日は寝てしまいましょう? 明日は二人ともシフト朝からですし」
アイラさんが、瞼をそっと閉じる。
よ、よし……これで彼女が眠りについた頃合いを見計らって布団から抜け出せば、妙な気を起こさないで済む。床で寝るのは疲れがとれないかもしれないが、ジャケットと毛布を引っ張り出して被って眠ればそれなりになんとかなるだろう。
ところが。
「圭、様……」
アイラさんのとろんとした声が聞こえた時には、もう遅かった。
彼女は真正面から僕に抱きついていた。
「ちょっ……ああアイラさん⁉︎」
「……触って、ください」
とんでもないささやきに、僕の心臓はドクンと跳ねた。
触るって……なにをッ⁉︎
そこで初めて、僕はこの展開の正体に思い至った。
やられた! これは『ほしきみ』三巻の山場、悪霊に憑りつかれた主人公に、美琴がえっちな介抱を施すシーンと同じシチュエーションだ。
確か小説では、衰弱していく主人公に添い寝をした美琴が、彼の手を自分の胸へと導いて……。
「……!」
アイラさんの指先が、僕の右手をパジャマの裾野へと誘う。
「だ、だめです、アイラさん……こんなこと……」
「だめですか? 圭様とお話ししていると、胸の奥がぽかぽかします。その場所に触れてほしいと思うことは、いけないことですか?」
いや、まぁ、一理あるというか、間違ってはいない。好き同士なら、相手の肌に触れたいと思うのは当然ことだ。
それに、童貞だろうと大関スケコマシのジゴロだろうと変わらない、不変的なことがひとつある。
男は、好きな女性のおっぱいなら飽きずに一生揉んでいられるのだ。これは決して誇張ではない。
——いや、だからどうした⁉︎ 何考えてんだ僕は!
密着するアイラさんの胸元から鼓動が響いて、僕はハッとなった。
痛いくらいに早鐘を打つアイラさんの鼓動は、僕のそれよりも大きく、速かった。
「アイラさん……」
「同じ眠れないなら、圭様にドキドキしている方がいいです」
額がかすかに触れ合う。こちらを覗き込むアイラさんの瞳が、羞恥にゆらゆらと火照っている。
——まだ出会ってから一ヶ月も経ってないんだ。
——きちんと好きだと伝えたわけでもない。
——お前は店長なんだぞ! わかってんのか、おいッ⁉︎
頭の中をよぎる数々の言い訳は、しかしアイラさんのパジャマの裾野から侵入した僕の右手の指先が彼女の素肌に触れた瞬間、粉々に砕け散った。
絹のような滑らかさに、息が止まりそうになる。
「……は」
アイラさんの表情がピクンと跳ねた。
それだけで、僕はもうだめだった。
「アイラさん……」
「はい……」
右手を彼女の腰から上へと滑らせる。
「はぁ……はぁ……」
顔を見られるのがたまらなく恥ずかしい。僕は左手をアイラさんの首の後ろへ回して、彼女を自分の首元へ抱き寄せた。
「は……は……」
アイラさんの息が鎖骨のあたりにかかる。
彼女の肌を迫り上がった右手は、平原から傾斜の手前へと差し掛かっていた。
抱き寄せた感触からわかってはいた。
わかってはいたけど。
彼女はブラジャーをつけていなかった。
そして。
僕は、ついに。
右手の指先をそっと開いて、たおやかなその丘を下から包み込んだ。
「ん……」
「ぁ……」と、情けない声が出た。
ふるん——と、やわらかな弾力が指に食い込む。
——うわ……。
ほんの少し力を加えるだけで、それは易々と形を変えて僕の手の平を迎え入れる。
「ぁ……圭、様……」
——うわ……うわ……っ!
手を大きく広げても、全てを包み込むには少し足りないほどの大きさ。
ゆっくり揉みしだく度に、例えようのない多幸感が広がって、僕は目の前がチカチカした。
蛇のように、僕の右手がパジャマの内側を這い回っている。パジャマに阻害されて直接は見えないが、それが返って指先の感触と淫靡な欲望を拡大させた。
僕は下半身を彼女に触れさせないよう、さりげなく腰を後ろに下げた。
「ふ……ん……」
どちらの息が乱れているのか、僕にはまったくわからなかった。
「は……は……っ」
意識して、触れていない場所がある。
丘の中央。
淡いピンク色の、その頂き。
——ん……く……。
一息呑み込んだ後、僕は慎重に親指と人差し指を丘の頂上へ移動させ——。
きゅっ。
と、やさしくつまみ上げた。
「あっ……」
恥ずかしすそうに目を伏せながら、アイラさんがわずかに体を強張らせる。
——もう、だめだ。
瞬間、姉から届いた小包のことが脳裏をよぎり、理性の糸が千切れ飛んだ僕は、アイラさんに覆い被さろうとした。
その時。
階下でドアが開く音がした。
「ッ!」
「……⁉︎」
気づくと、僕とアイラさんは布団の端と端で背中を向け合っていた。
母だろう、トイレのドアが開き、しばらくしてから寝室へ戻っていった気配がする。
無意識に止めていた息を、僕はようやく吐き出した。
——触ってしまった……。
人生で初めて、自分の意志で触れてしまった。
あるのか、あんなにやわらかいものが。
世の恋人たちは、みんなあんな風に心臓が止まりそうになりながら抱き合うものなのか。
「圭様……?」
背中にアイラさんの手が添えられて、僕は一瞬体を固くした。
「すいません。調子に乗りました」
「……顔、見たいです」
いそいそと体の向きを変える。
少し頬を赤らめながら、心配そうにこちらを覗き込むアイラさんの表情とぶつかった。
「少し、疲れはとれましたか?」
「?」
「あの……男性は、胸に触るとリラックスしてストレス解消になると、本に……」
そうか。
彼女は、僕が毎日深夜まで仕事をしているから心配してくれていたのだ。
「すごく、元気出ました」
言いながら、バカなのか自分は? と思ったが、素直に伝えることにした。
だって、それでアイラさんの表情が少し笑顔になるんだから。
「よかった」
僕はおずおずとアイラさんの手を取った。
「眠くなるまで、少しお話ししますか? アイラさんに貸したやつ、僕も大好きな作品なので、いくらでもつきあいますよ」
「はい……」
布団に潜り込み、二人でぽつぽつと言葉を交わしながら、やがてアイラさんは安らかな寝息を立て始めた。
僕の方はといえば、右手に残った生々しい胸の感覚に悩まされ、ギンギンに目が冴えてまったく眠ることができない。今頃右手が震えてくる始末だ。
父が入院するのは一週間後。それから、この家には僕とアイラさんだけになる。
——耐えられるだろうか……。
階下で音がしなければ、多分僕はアイラさんに欲望のまま襲いかかっていた。
暴走しない自信が、僕にはまるっきりなかった。




