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第10話

「父さん、入院するの⁉︎」

 頼まれていた時代小説の文庫を手渡しながら、僕はつい大声を出してしまった。

「腰脊椎管狭窄症というらしいんだがな、骨を削らんといかんそうだ。命に関わるようなもんではないから、心配せんでいい」

 父さん、ごめん。

 僕が引っ掛かったのはそこじゃないんだ……。

「母さんと一緒に実家の方に帰るって」

「手術ができる病院が近くにないからな。術後次第のようだが、リハビリのために通院もしなきゃならんだろうし、俺の方の実家にしばらく世話になるつもりだ。お前もいい大人なんだ。母さんがいなくてもなんとかなるだろう」

 ベッドから上体を起こした父は、顔をしかめるように目を細めた。怒っているわけではなく、不甲斐ないのだろう。うまくいかない時、父は昔からこういう顔をする。

「すまんな、店を手伝ってやれればいいんだが……」

 気持ちだけもらっておく。酷な言い方だけど、杖をつかないと歩けない日もある父に、本が入ったダンボールを持ち上げたりするのは到底無理だ。

「アイラさんな」

「うん」

「いい子だな。この間も俺の本棚から何冊か持っていったよ」

 気難しい父が褒めるとは、珍しいこともある。でも、わからないでもなかった。

 アイラさんは、人からすすめられたものに素直に感心して話を聞いてくれる。本好きにとって、こんなにうれしいことはない。

「惚れてんのか、お前?」

「い? や、それは……なんていうか」

 父はじっと僕の目を直視しながら言った。

「泣かすなよ。体だけは大事にしろ」

 見透かされたな、と思う。朝から働いて、今は夜の十時だ。これから深夜まで、また部屋にこもって事務仕事をする。最近はずっとそんな生活をしていた。

「アイラさん、大丈夫かしら?」

 リビングで夕食をかきこんでいたら、母が呟いた。

「何かあった?」

「夕食を一緒に食べてたんだけど、ずっと上の空でね。仕事で失敗でもしたのかしら」

「いや、そんなことはなかったと思うけど」

「そう……頭からぷすぷす湯気まで出てたから、心配だわ」

 そんなバカな、と思ってシャワーを浴びた後にアイラさんの部屋を訪ねたら、本当に頭からぷすぷすと湯気を立ち昇らせて本棚の脇に座り込んでいた。両目が点だ。放心しているらしい。

「アイラさん⁉︎」

「圭様……」

 アイラさんが呆けた顔で僕の方を振り返る。手元には、往年のファンタジー小説の文庫最新刊があった。僕が自分の部屋の本棚から貸したシリーズだった。

 それでなんとなく合点がいった。このシリーズは三十年以上前に出版された戦記物で、日本のファンタジー界における美人で聡明な女性エルフ像を確立したことでも有名な作品なのである。数年前、そのシリーズの続編が突如発売となり、話題になったのだが、そういえばアイラさんはここのところそのシリーズをもの凄いスピードで熱心に読み込んでいた。

 ——あれ、新シリーズが百年後で前作の主人公が亡くなってて、エルフのヒロインの方だけ出てくるんだよな。

「異種族間の恋愛がこんなに悲しいなんて……」

 しばらく僕を見上げていたアイラさんは、やがて焦点が戻ると呻くように泣き始めてしまった。

「アイラさん……」

 自分にも経験がある。好きな作品やキャラが不本意な結末を迎えると、どうしていいかわからなくなるのだ。

 そういうのめり込み方が正しいのかどうかはわからない。でも、彼女の気持ちは痛いほどよくわかった。

 多分、そのエルフのヒロインと自分をどこかで重ねて読んでいたのだろう。

「ほら、まだ完結してませんから、これからどうなるかはわかりませんよ?」

 アイラさんの前にしゃがみ込む。

 ぽろぽろと涙を流しながら、彼女は僕の手を取った。

「ふぇ……ぇ……」

 うらやましいな——と、僕は思った。

 高校生くらいまで、好きな小説やマンガの新刊が発売になるのが待ち遠しくて仕方なかった。今は売上のことばかり考えて、出版社からもらうプルーフや献本を読む時間すらとれないでいる。

 あの気持ちを、僕はどこに置き忘れてきてしまったんだろう。


 ——アイラさん、大丈夫だったかな。

 寝つけずに何度目かの寝返りをうつ。

 あの後、アイラさんが泣き止むのを待ってから部屋に戻ったけど、俯いたままだったのが気になっていた。

 ただ、眠れないのはそれだけが原因というわけでもなかった。

 父が入院するのは来週からだ。それから、この家は僕とアイラさんだけになる。

 布団へ横になったまま、壁際に追いやった小包を見る。

 姉から僕宛に送られてきたと寝る前に母から受け取ったものだ。僕とアイラさんに関わるものだとスマホにメッセージが来ていたから急いで開封してみたら、中から……つまり、その、なんというか……薄くて丸いゴムでできた正方形のパッケージが大量に出てきて、僕はマンガみたいにズッコケそうになったのだった。

 ——何考えてるんだ、あのバカ。

 最低だ。

 いや、最低なのはそういうことを少し期待してしまっている自分自身だった。

 童貞なんだよ、ちくしょー。

 その時。

 コンコン——と、僕の部屋のドアがノックされた。

「アイラさん?」

 廊下にアイラさんが立っていた。ファッションセンターかわむらで買ったゆったりピンクのもこもこパジャマが愛らしい。

 まだ元気がないらしい、叱られた子供のようにしゅんとした様子で立ち尽くしている。

 初日のことがあってから、店長命令で夜に僕の部屋へ来ることを禁止していたので、彼女がこんな時間に訪ねてくるのはあれ以来初めてだった。

「どうしました?」

「……目を閉じると、今日読んでいたお話しのことばかり考えてしまって……」

「眠れませんか? 下であったかいお茶かホットミルクでも入れましょうか? 僕でよければ、話し相手になりますよ」

 ふるふると首を横に振る。

「あの……」

 しばらく間が空いてから、彼女は切実な表情で僕を見上げて、言った。

「一緒に、寝させていただけませんか?」

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