啼子の里
「あまり我から離れるでないぞ? ここの湯は少々においが強すぎて鼻が効かぬのでな」
狐娘は上品な仕草で服を脱ぐと、丁寧に畳む。
「そんな無理をしてまで温泉に浸からなくても良いのでは……?」
曾良も一糸まとわぬ姿で狐娘と並んで湯に浸かることにする。現代では考えにくい風景であるが、当時の温泉は混浴が当たり前であった。
「何を言うておるか。ここまで来て湯に入らぬなど……つまらぬじゃろうが。旅として」
狐娘は尻尾を振って湯を波立たせながら、言い放った。
「それは、確かにそうかもしれませんが……」
曾良は、なぜか隣にいる狐娘を直視できなかった。
「なんじゃ、急に背中を向けて……」狐娘はそこで何かに気付いたらしく、不敵な笑みを浮かべた。「なるほど、我に肩でも揉んでほしいということじゃな~?」
「いっ!? いえ! 決してそういうわけでは……!?」
胸が妙に高鳴っているが、それは温泉に入って身体が温まっているからに違いない。曾良はそれ以上深く考えないことにしたのだった。
「遠慮せずともよい、たまにはこういうのも楽しかろう」
「いえ、本当に大丈夫で――うわあっ!」
肉球の感触を両肩で感じ、曾良はこそばゆさに悲鳴をあげるのであった。
承和四年(八三七年)、この近くにある潟山という山が大爆発し、この地から轟音とともに温泉が湧き出した。
平安時代に成立した歴史書・『続日本後紀』にも、そのような記載がある。
一説によれば、この温泉が湧きだす轟音が「鳴声」と呼ばれるようになり、これが現在の地名「鳴子」の由来とも言われている。
ただし、「鳴子」の名前の由来については、もう一つの義経伝説に関する昔話の方が有名かもしれない。
源頼朝から逃れるため、奥州へと向かっていた義経御一行。
そこに同行していた義経の妻・郷御前は、ちょうどこの近くにある亀割峠を通りかかった折に、義経の子を産んでいた。
しかし、なかなか産声をあげないその子の産湯として、この温泉を使ったところ、ようやく初めて声をあげたので、この辺りを「啼子の里」と名付けた。それが転じて「鳴子」になったという説が古くから伝わっているのだという。
「なるほど、その話は芭蕉先生が知ったら喜ぶかもしれませんね」
夕飯時に旅籠の主人から「啼子の里」の伝説を教えてもらった曾良は、芭蕉に思いを馳せた。
目の前の狐娘は、焼き魚を綺麗に骨だけ残して食べ終えたところである。芭蕉の意識はまだ戻っていない。
「なんじゃ、我と一緒にいながら、他の娘の話をするとは……。妬いてしまうのう?」
「芭蕉先生を娘扱いするのはやめてください」曾良は思わず訂正した。「芭蕉先生は、私の大切な師匠であって、恋人でも異性でもないんですから……」
それに対して、狐娘は特に反論することはなかった。ただただ、曾良の真剣な顔を眺めつつ、嬉しそうにほくそ笑むだけである。
無性に腹が立った曾良であったが、九尾の狐相手に喧嘩を売るほど愚かではない。
心を落ち着けるため、曾良はゆっくりと深呼吸をした。




