鳴子温泉
元禄二年(一六八九年)五月十五日
雨が上がったので笠を脱いで景色を見渡すと、川の向こう側に旅籠屋が立ち並んでいるのが見えた。
「あの辺りが鳴子温泉でしょうか。立ち寄りたいのは山々ですが……」
芭蕉は行きたそうな目で対岸を眺めていたが、すぐに気持ちを切り替えて、出羽国へ続く道を歩んでいく。
「そうですね。今日中に山越えをしないと清風さんとの約束の日までに尾花沢に着けなくなってしまいます」
曾良がそう言うと、狐尻尾で頬を叩かれた。全く痛くないが突然のことで驚く。
「『そうですね』じゃなかろうが! 二人そろって真面目すぎるんじゃ、おぬしらは! 流石に我慢できずに出てきてしもうたわ!」
その口調は芭蕉のものではない。九尾の狐の意識が表に出ているようだ。
「お九さん、何をお怒りになっているのです?」
「その名で呼ぶなと言うておるじゃろうが。もはや呼ばれ慣れてきたが……。まぁ、この際、呼び名などはどうでもよい。名湯が目と鼻の先にあるのに寄って行かぬとは、おぬしらどういう了見じゃ!」
「申し訳ございません。尾花沢に清風さんという人が居まして、お待たせするわけにはいかないので、先を急いでいるのです」
「そんな者、少しくらい待たせておけばよい! 鳴子の湯に行くぞ!」
無茶苦茶なことを言い出す狐娘に、曾良は困ってしまった。直後、狐娘は無言で川の方へと曲がって、温泉目指して田んぼの脇道を足早に歩いて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
曾良が慌てて追いかけると、川の浅瀬を歩いて渡ろうと着物をたくし上げている狐娘に追いつく。
「早くせぬと置いてゆくぞ?」
ちょうど渡し舟もなく、川越し人足もいない場所であった。
「そんなんじゃ濡れてしまいますよ。肩車しますので、乗ってください」
曾良がしゃがみ込むと、狐娘は驚いた様子で「ほう、良き心がけじゃのう」と言って曾良の両肩にまたがる。
ふわふわの毛皮で覆われた細い足をしっかりと握って、曾良は川を渡っていく。
「ふむ、苦しゅうないぞ。悪くない乗り心地じゃ」
出会った頃に比べれば成長して体重も増えていたはずの狐娘だが、曾良が肩車できるように子どもの姿に化けてくれたようで、全然重くは感じなかった。
おかげで、曾良は荷物を背負ったまま、難なく川を渡り終えることができたのであった。
「今日の宿を探してきますので、少々お待ちください」
「いや、わがままを聞いてもらった礼に、我も同行しよう」
肩から降りると同時に元の体格に戻った狐娘は、自信ありげに微笑む。
「我の魅了を用いれば、滅多に宿から断られることもあるまい」
その言葉どおり、あっという間に旅籠屋の一室を確保することができたことは言うまでもない。
「宿探しまで手伝っていただき、ありがとうございました」
「良い良い。……ところで、今じゃから言うが、川向うを歩いておった時、何者かに後をつけられておったぞ」
部屋の真ん中に腰を下ろしつつ、狐娘は言った。曾良は背筋が冷える心地がした。
「それは……野盗の類でしょうか」
「野盗にしては、足音を消すことに慣れすぎている印象じゃったな。まぁ、どんなに音を消そうが、我の耳までは誤魔化せぬ。川を越えてまで追っては来ないようじゃが、付かず離れず距離を保って追ってきておったことは間違いない。恐らくは仙台藩とやらの隠密の類ではないか、というのが我の見立てじゃ」
「やはり、急いで出羽国に抜けるべきだったのでは……」
「それは向こうも警戒しておったのじゃろう。国境の方向に潜んでおる気配も多数あったがゆえ、恐らくは挟み撃ちにする算段じゃったと思うぞ」
「つまり、それを回避するために、温泉に入りたいと嘘をついて道を外れてくださったのですか……?」
曾良が尋ねると、狐娘は七本の尾を扇のように広げて不敵な笑みを浮かべた。
「ふふっ、我を誰と心得る。温泉に入りたいと駄々をこねるわけが無いじゃろうが。……それはそれとして、汗を流すことは大切じゃ。暗くなる前に温泉に浸かりに行こうぞ」
そわそわと尻尾を揺らしながら、狐娘は温泉にいく準備を整えているのであった。




