小黒崎、美豆の小島
元禄二年(一六八九年)五月十五日
朝から小雨が降り続いていた。
空を見上げれば、旅の道行きを暗示するかのような薄曇りであった。
「こう雨続きだと困りますね。そろそろ夏らしく晴れてくれると良いのですが……」
曾良は歩きながら残念そうに呟く。
「物は考えようです。照りつけるような日差しの中に比べれば、幾分楽ですよ。喉も大して乾きませんし」
芭蕉は、狐の口を大きく開けて雨で喉を潤すと、口周りの毛についた雨粒をぺろりと一舐めして見せた。
「お腹を壊しても知りませんよ、芭蕉先生」
「あっはっは、冗談ですよ」
さて、昨晩の宿で聞いた噂によると、尾花沢までの最短経路として曾良が考えていた最上街道は、人通りも多く安全な反面、近隣に延沢銀山があるため、銀の密輸を警戒した仙台藩により多くの番所が設けられていて通るのに苦労するとのことだった。
裸に剥かれて尻の穴まで調べられたなどという噂は、どこまで本当かは分からないが、あまり聞いていて良い気分にはならない話であった。
「曾良君。我々には、何もやましいことは無いのです。没収されて困るようなものもありません。このまま近い道を行けばよいのではないですか」
「いや、しかし……」
何もやましいことが無くとも、狐娘姿は明らかに怪しく、番所で目立ってしまうことは避けられない。
人通りが多い街道で、番人に服をはぎ取られる狐娘芭蕉の姿を夢に見てしまった曾良は、今朝目を覚ましてから急に恐ろしくなってしまった。
だが、当然ながら、それをそのまま芭蕉本人に伝えるのも気が引けることである。
「芭蕉先生。そう言えば、ここから北へ行くと、『小黒崎』や『美豆の小島』といった歌枕があるそうです。あとは、尿前の関などもあるようですね」
それを聞いた芭蕉は真剣な表情でしばし悩んだ後、『をぐろ崎 みつのこじまの 人ならば 都のつとに いざといはましを』という歌を暗唱した。
それは、古今和歌集に収録されている詠み人知らずの歌であるとともに、先を急ぐあまり見ることが叶わなかった歌枕『姉歯の松』を詠んだとある古歌と類似する歌でもあった。
数刻後――。
「ここが、かの有名な小黒崎ですか。近くに美豆の小島もあるはずですね。探してみましょう、曾良君!」
「元々は川の中州だったと言いますから、あちらの川の方にあるのかもしれません」
「おおっ、確かにそれらしき川がありますね! さすが曾良君です!」
先を駆けていく芭蕉の狐尻尾は、千切れんばかりの勢いで左右に振られていた。
姉歯の松を見逃したことを密かに後悔していた芭蕉は、その分を取り返すことができたような心持ちだったのかもしれない。
何はともあれ、こうして狐娘芭蕉と曾良は、当初予定していた最上街道を外れ、尿前の関を通る経路を行くことになったのである。




