岩手の里
元禄二年(一六八九年)五月十四日
「ようやく人里が見えてきましたね……」
小雨が続いて獣毛が肌にくっつく感覚に、狐娘芭蕉はうんざりしていた。少し前に転んでしまったこともあり、尻尾どころか全身泥だらけである。
「もうだいぶ陽も傾いてきました。流石にこれ以上進むのは危険です。今夜はあの里で宿を探しましょう」曾良の意見に、芭蕉も異論はない。
里に辿り着くには、やや大きい川を渡る必要があった。
芭蕉が川の畔で服や身体の泥を落としている間に、曾良は渡し舟を見つけてくれた。
いわでやま。
船頭が舟を漕ぎつつ、この辺りの地名を教えてくれた。
「なるほど、ここが岩手の里ですか」
『見ぬ人に いかが語らむ くちなしの いはでの里の 山吹の花』
芭蕉が諳んじたのは、新勅撰和歌集に収録されている詠み人知らずの歌である。
『いはで』は、『言わで』――つまり『言わない』という意味が掛かっている。
『くちなし』は、夏に咲く花の名であるとともに、当然『口なし』という意味が込められており、『言わない』と通ずる単語だ。
「今日は雨もあって、くちなしの花を探す余裕もなかったですね」やや残念そうに芭蕉が呟いた。その狐尻尾は、力なく垂れさがっている。
芭蕉の気分を映すかのように、舟から降りると雨脚が少しだけ強くなり、夜が近づいてきた。
「完全に暗くなる前に宿が見つかって良かったです。いつもありがとうございます、曾良君」
尻尾を小さくした芭蕉が笠を目深に被れば、うす暗い町で通行人に狐娘だと気付かれることもない。
小さな子どもに気付かれる一幕はあったが、大きな騒ぎになることはなく、あっさりと今日の宿に辿り着くことができた。
岩出山城は、天正十九年(一五九一年)からしばし、伊達政宗公が居城であったことで有名だ。
豊臣秀吉の命により領地の大半を没収され、当時二十四歳だった伊達政宗は、生まれ育った米沢から、ここ岩出山城へと追いやられることとなった。
「――それから、仙台の青葉城に居城を移すまでの十二年間、この地で伊達政宗公は何を思い描いていたのでしょうね」
就寝前、曾良は隣で先に横になっていた芭蕉に問いかけた。
「表向きは秀吉に従いつつも、伊達政宗には隠しきれぬ野心があったと拙者は考えています。秀吉も、そんな政宗を恐れたからこそ、領地を取り上げたのでしょう」背を向けていた芭蕉は、寝返りをうって曾良を見る。
「芭蕉先生。政宗公は、領地を奪われてなお野心を捨てず、ここで機を狙って準備を整えていたと思われますか?」
なぜ急にそんなことを尋ねるのだろう。芭蕉は疑問に思ったが、敢えて理由を追求することはしなかった。
「拙者は詳しくはないので分かりかねますが、政宗は秀吉が亡くなった後に、家康に忠誠を誓ったのですよね?」
「はい。その時に、政宗は長女の五郎八姫を、家康の六男・松平忠輝に嫁がせたそうです」
「とすれば、少なくとも秀吉が生きている間は、最後まで波風を立てないようにしつつ、世の流れを読むことに徹していたとも思えます。それは野心を捨てたと言うよりは、野心を隠す巧妙さを持ったと見ることもできるでしょう」
「巧妙さ、ですか……」曾良は真剣な顔で呟いた。
静かな夜に狐耳を傾ければ、渡ってきた川のせせらぎや、山犬たちの遠吠えまでもが聞こえてくる。
「曾良君は、拙者よりも若いのです。もしも野心があるのなら、それは捨てずに大切にした方が良いでしょう」
「い、いえ、今のは私の話ではなくてですね……」曾良が慌てて何か弁明しようとするが、狐娘芭蕉はそれを制した。
「もちろん分かっていますよ。『言わない』でも大丈夫ですが、決して無理はしないでくださいね。拙者は曾良君のいない旅なんて想像したくもありませんから……」
「芭蕉先生……」
こうして、『言わで』の夜は更けていった。
後に、芭蕉が『おくのほそ道』の本文で「岩手の里に泊まる」と記して紹介しているため、岩手県にある里に泊まったと誤解する人もいたかもしれない。
しかしながら、「いわでやま」は「岩出山」と書き、岩手とは無関係の地名である。実際の岩出山は、現在の宮城県大崎市に位置している。




