表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/72

岩手の里

元禄二年(一六八九年)五月十四日


「ようやく人里が見えてきましたね……」


小雨が続いて獣毛が肌にくっつく感覚に、狐娘芭蕉はうんざりしていた。少し前に転んでしまったこともあり、尻尾どころか全身泥だらけである。


「もうだいぶ陽も傾いてきました。流石にこれ以上進むのは危険です。今夜はあの里で宿を探しましょう」曾良の意見に、芭蕉も異論はない。


 里に辿り着くには、やや大きい川を渡る必要があった。


 芭蕉が川の畔で服や身体の泥を落としている間に、曾良は渡し舟を見つけてくれた。


 いわでやま。


 船頭が舟を漕ぎつつ、この辺りの地名を教えてくれた。


「なるほど、ここが岩手いわでの里ですか」


『見ぬ人に いかが語らむ くちなしの いはでの里の 山吹の花』


 芭蕉がそらんじたのは、新勅撰和歌集に収録されている詠み人知らずの歌である。


『いはで』は、『言わで』――つまり『言わない』という意味が掛かっている。


『くちなし』は、夏に咲く花の名であるとともに、当然『口なし』という意味が込められており、『言わない』と通ずる単語だ。


「今日は雨もあって、くちなしの花を探す余裕もなかったですね」やや残念そうに芭蕉が呟いた。その狐尻尾は、力なく垂れさがっている。


 芭蕉の気分を映すかのように、舟から降りると雨脚が少しだけ強くなり、夜が近づいてきた。



「完全に暗くなる前に宿が見つかって良かったです。いつもありがとうございます、曾良君」


尻尾を小さくした芭蕉が笠を目深に被れば、うす暗い町で通行人に狐娘だと気付かれることもない。


 小さな子どもに気付かれる一幕はあったが、大きな騒ぎになることはなく、あっさりと今日の宿に辿り着くことができた。


 岩出山城は、天正十九年(一五九一年)からしばし、伊達政宗公が居城であったことで有名だ。


 豊臣秀吉の命により領地の大半を没収され、当時二十四歳だった伊達政宗は、生まれ育った米沢から、ここ岩出山城へと追いやられることとなった。


「――それから、仙台の青葉城に居城を移すまでの十二年間、この地で伊達政宗公は何を思い描いていたのでしょうね」


就寝前、曾良は隣で先に横になっていた芭蕉に問いかけた。


「表向きは秀吉に従いつつも、伊達政宗には隠しきれぬ野心があったと拙者は考えています。秀吉も、そんな政宗を恐れたからこそ、領地を取り上げたのでしょう」背を向けていた芭蕉は、寝返りをうって曾良を見る。


「芭蕉先生。政宗公は、領地を奪われてなお野心を捨てず、ここで機を狙って準備を整えていたと思われますか?」


 なぜ急にそんなことを尋ねるのだろう。芭蕉は疑問に思ったが、敢えて理由を追求することはしなかった。


「拙者は詳しくはないので分かりかねますが、政宗は秀吉が亡くなった後に、家康に忠誠を誓ったのですよね?」


「はい。その時に、政宗は長女の五郎八姫いろはひめを、家康の六男・松平忠輝まつだいらただてるに嫁がせたそうです」


「とすれば、少なくとも秀吉が生きている間は、最後まで波風を立てないようにしつつ、世の流れを読むことに徹していたとも思えます。それは野心を捨てたと言うよりは、野心を隠す巧妙さを持ったと見ることもできるでしょう」


「巧妙さ、ですか……」曾良は真剣な顔で呟いた。


 静かな夜に狐耳を傾ければ、渡ってきた川のせせらぎや、山犬たちの遠吠えまでもが聞こえてくる。


「曾良君は、拙者よりも若いのです。もしも野心があるのなら、それは捨てずに大切にした方が良いでしょう」


「い、いえ、今のは私の話ではなくてですね……」曾良が慌てて何か弁明しようとするが、狐娘芭蕉はそれを制した。


「もちろん分かっていますよ。『言わない』でも大丈夫ですが、決して無理はしないでくださいね。拙者は曾良君のいない旅なんて想像したくもありませんから……」


「芭蕉先生……」


 こうして、『言わで』の夜は更けていった。


 後に、芭蕉が『おくのほそ道』の本文で「岩手いわでの里に泊まる」と記して紹介しているため、岩手県にある里に泊まったと誤解する人もいたかもしれない。


 しかしながら、「いわでやま」は「岩出山」と書き、岩手とは無関係の地名である。実際の岩出山いわでやまは、現在の宮城県大崎市に位置している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ