千本松長根、磯良神社
真坂宿を過ぎた辺りから、急に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨となった。
すぐさま笠を被って合羽を羽織った狐娘芭蕉だったが、尻尾を小さくして服の下に隠すのが遅れてしまった。
「うぅ……尻尾が濡れてしまって、気持ち悪いです」
「一度、真坂に戻りますか? 芭蕉先生」
芭蕉は曾良の提案にしばし悩んでいたが、天を見上げると、わずかばかり雲に切れ間が見えることに気付いた。
「いえ、このまま次の宿場まで進みましょう。すぐに晴れるかもしれませんし。清風も我々の到着を尾花沢で待ちわびているでしょうから」
「わかりました。先に進みましょう」
平泉に寄らなければ多少の余裕があったのだが、既に丸一日ほど旅程が遅れている。あまりのんびりとはしていられなかった。
芭蕉の言うとおり、一度は晴れたが、またすぐに曇ってきて、小雨となってしまった。
「なかなか晴れませんね……」
深いため息を一つ、しょんぼりと項垂れて歩く芭蕉先生もたいへんに可愛らしい、と曾良は旅日記に書き残している。
「疲れたら遠慮なくおっしゃってくださいね、芭蕉先生」
「拙者は、大丈夫です。曾良君の方こそ、無理せず言ってくださいよ」
小雨の中ではあったが、松の古木が街道沿いに並ぶ場所もあり、雨を多少は避けることができた。
見ごたえのある風景であったため、あとで確認したところ、千本松長根という松の名所らしい。
千本松長根の先に、小さな池の畔に建つ社があった。
「神社のようですね。恐らく、真坂で聞いた磯良神社とはここのことでしょう」
池の水面が大きく波打っている。
「誰かが魚でも獲っているのでしょうか」
そう言って芭蕉が覗き込んだのと、池から緑色の河童が顔を出したのは同時であった。
「クワーーー!!!」
「わあああああ!!」
二人の悲鳴が境内に木霊した。
「どど、どうしてここに化け狐が!? おれなんか食っても美味くねえぞ!」
相撲の構えを取ろうとする河童。
「落ち着いてください、食べたりしませんよ」
曾良は腰を抜かした芭蕉に代わって、河童に説明するのだった。
「勘違いして悪かった。あと、驚かせてすまなかったなぁ」
「いえ、驚かせたのはお互い様ですので……あ痛たたた」
尻もちを付いた時に地面で擦ってしまったらしい。芭蕉の肘から少しだけ血が出ていた。
「大変だ。ちょっと待ってろ」
河童は池から上がると、のそのそと草陰まで歩いて、そこから小さな甕を取り出す。
「それは何ですか……?」曾良は思わず尋ねた。
「これはな、おれが薬草を練って作った塗り薬だ。切り傷や擦り傷によく効くぞ」
「いえ、せっかくですが、そんなに大した傷ではありませんので、ご遠慮させていたああああああ!」
芭蕉が辞退する前に、河童は目にも止まらぬ速さで芭蕉の肘に薬を塗ってくれていた。
「あの、ものすごく痛がっているのですが、本当に大丈夫なのですか?」
曾良が訝しげな表情で河童に問いかける。
「この薬を塗ると、初めはかなり痛むと思うが、傷が治っていけばすぐに痛みは引いていく」
河童の言う通り、すぐに痛みが引いたので傷を確認してみたが、どこに傷があるのか分からないほど綺麗に治っていた。
「これほどの塗り薬は初めて見ました。貴重な薬を使っていただき、ありがとうございます。拙者は芭蕉。こちらは弟子の曾良です」
「貴重というか、河童なら誰でも持ってるくらい一般的な薬だけどなぁ」
「河童様、もし差し支えがございませんでしたら、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「ああ? 今は『おかっぱ様』などとも呼ばれるが……、名前なんて昔、人に化けて馬屋で暮らしていた頃のものしかないぞ」
河童はそう前置きをしてから、『虎吉』と名乗った。
それは伝説に名高い、藤原秀郷に仕えていたという河童の名であった。




