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津久毛橋

元禄二年(一六八九年)五月十四日


 一関を出発した狐娘芭蕉と弟子の曾良は、青空の下、出羽国でわのくに尾花沢おばなざわを目指して南西へと向かっていた。


 尾花沢には、清風せいふうという昔馴染みの俳諧師がいるため、数日ほど滞在させてもらう約束をしていたのである。


「芭蕉先生、あのぅ……」曾良は言葉を濁した。


「どうしましたか、曾良君」


 指摘すべきかどうか、曾良は悩んでいた。


 平泉に立ち寄ってから、芭蕉の様子が何やら少しおかしいのである。


 まず、曾良と並んで歩く距離が近い。


 あわよくば、曾良に触れようとしてくる。


 それだけではない。


「暑くなってきたので、尻尾を小さくしていただけませんか。芭蕉先生」


 ここのところ、気が付くと芭蕉の尻尾が曾良へと絡んでくるのだった。


「おっと、これは失礼しました!」芭蕉は慌てて七つの尾をひねって小さく変化へんげさせると、「ところで、源頼朝も、奥州征伐の際にこの道を通って進軍したと『吾妻鏡』に記載がありましたね」などと露骨に話題を逸らした。


「いまは、ちょうど頼朝と逆の道順を辿る形となっていますね」曾良は微笑んで答えた。


 岩ケ崎から一里半ほどの距離の地に、歌枕の津久毛つくもばしがあるという噂を聞いたので、芭蕉と曾良は立ち寄ってみることにしたのだった。


「この辺りも、なかなか見渡す限りの夏草ですねぇ」津久毛橋からの景色を見回した芭蕉は、率直な感想を呟く。


 奥州征伐でこの辺りを訪れた梶原景高かじわらかげたかの詠んだとされる歌が、『吾妻鏡』に記されている。


陸奥みちのくせい御方みかたに 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡やすひらくび


 「味方につく」と「つくも橋」が掛かっているだけでなく、橋を「かける」と泰衡を梟首に「かける」の意味も掛かっている。


 これを即興で詠んだとすれば、さぞ陣中は盛り上がり、味方の士気も高まったであろう。


「そうして意気揚々と辿り着いた平泉が、まさか灰になっているとは、景高も思わなかったでしょうね」芭蕉は苦笑した。


 平泉に到着した鎌倉軍の面々は、燃え尽きた平泉の風景にさぞ驚いたことだろう。


 一寸先は闇。予期せぬことが起こるのは世の常である。


 津久毛橋を訪れた理由は、もう一つあった。


「あなたがた、杉目すぎのめ太郎たろう行信ゆきのぶをご存じない!? それはもう有名な方なのですよ。衣川の戦いから遡ること一年ほど前より、判官ほうがんどのに影武者として仕えていたという若武者です! 判官どのとそっくりな外見の彼が影武者として衣川の館に留まったことで、判官どのは衣川の戦いの一年以上前に平泉から逃れ、北へ向かうことができたと言われているのですから!」


 岩ケ崎で出会った村人に近くの名所を尋ねたところ、杉目太郎行信の供養塔なるものがあると紹介してくれたのである。


「やはり影武者がいたのですか! 教えていただき、ありがとうございました」表情を明るくして、芭蕉は頭を下げていた。



 そんなわけで、津久毛橋城跡を探し歩いた二人だったが、石碑はなかなか見つからなかった。


「この石碑でしょうか? 何か書かれているようですが、古すぎて読めませんね……」


 津久毛橋城跡にて、曾良が小さな石碑らしきものを見つけた。石の表面には名前らしきものが刻まれているが、判読できないほど雨風で磨かれ、苔むしていた。


 苔を取ろうと、思わず石碑に触れた瞬間、芭蕉に衝撃が走った。


『ほう、【生写いきうつしの術】に近い力が込められておったようじゃのう。既に力は残されておらぬようじゃが』


 倒れかけた芭蕉の身体を引き継いだ九尾は、膝を地に着く前に体勢を整えて立ち上がった。広げた尾の数は七つ。増えていない。


「ええと、どういうことですか。お九さん」


『すでに何者かが、この石碑に宿った力を奪い去った後のようじゃ、と言うておる。それもつい最近にのう』


 それはつまり、芭蕉以外にも、石に宿った力を集めている何者かが近くにいるかもしれない、ということであった。


 芭蕉も曾良も、まさかその何者かと遠からず邂逅することになるとは、この時は夢にも思っていなかったのである。


 一寸先は闇。予期せぬことが起こるのは世の常である。

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