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一関

元禄二年(一六八九年)五月十三日


 平泉を離れ、足早に一関へと戻ったため、辛うじて夕方には宿に戻ることができた。


 宿と書いたが、厳密には温泉宿や旅籠屋というわけではなく、金森という者が暮らすやしきであった。


 曾良が旅に出る前に調整しておいてくれたこともあり、俳諧はいかいが好きな主人のご厚意で泊めてもらえることになったのであった。


「お疲れ様でございました。芭蕉先生に曾良さん、すい風呂を沸かしておりますので、夕飯の前にさっぱりと汗を流されてはいかがでしょう?」


昨晩もお世話になった金森家の主人は、気を利かせて水風呂を準備してくれていた。


 ここで言う水風呂とは、浴槽に沸かした水を張って入浴するというものである。「据え風呂」とも呼ばれた。


「ありがとうございます。助かります」狐娘芭蕉と曾良は、主人にお礼をいって、風呂を借りることとする。


「曾良君。せっかくですので、一緒にお風呂に入りませんか?」


芭蕉が急にそんな提案をしてきたので、曾良は危うく咽せるところであった。


「さすがに、一緒に入るのは駄目ですよ! ええと、そう、二人で入って湯船が壊れてしまっては大変ですし!」


「そうですか…」何故か少し残念そうな芭蕉を先に風呂場へ行かせて、曾良は客間でひと息つくことにした。


 芭蕉が狐娘になってからというもの、曾良は師匠に対してどのように接すれば良いか分からなくなる時がたびたびあった。


 最初はまだ小さいわらしのような存在として、狐娘となった師匠を守って旅を続けていこうと思っていた。


 しかし、尾が増えるに連れて、狐娘の身体は成長していき、今では限りなく大人に近い体形の女性となっている。


 妻のいない曾良にとって、狐娘との旅は背徳的とも言えるほどの魅力にあふれていた。


 曾良自身、よわい四十を過ぎてほとんど枯れたと思っていたはずの異性への欲求が、恥ずかしながら湧いてくるのである。


 それを決しておもてには出すまいと、曾良は旅の道中ずっと我慢していた。


 そんな気持ちを知ってか知らずか、九尾は時折、面白半分で芭蕉の身体を借りて、曾良を誘惑してくるのであった。


 尾が七つになって、いよいよ芭蕉の力は曾良の想像も及ばぬ領域へと到達しつつある。


 歴史を書き換えてしまうほどの力を持つ存在を前にして、曾良はいつまで抵抗できるのだろうか。


「私が芭蕉先生を守ろうなどと、今思えば身のほど知らずでした。もはや、私ができることなど、ほとんど無いのかもしれません……」


 そんなことを呟いた時である。風呂場から曾良の名を呼ぶ芭蕉の声が聞こえてきた。


「どうされましたか、芭蕉先生!?」慌てて芭蕉の元へ向かうと、そこには一糸まとわぬ狐娘が湯気の立つ浴槽に浸かっていた。


 一瞬、曾良は身体を強張らせたが、芭蕉に気付かれぬうちに平常心を取り戻して真顔になる。


「すみません。湯に入ってから湯手ゆてを忘れたことに気付きまして」芭蕉は照れくさそうに狐耳の後ろを掻いた。


 湯手とは、入浴時に身体を洗ったり拭いたりするのに用いる手拭いのことである。


「あぁ、それでしたら、すぐに取ってきますよ」


「それと、やはり曾良君も一緒に入りましょう。これだけ立派な浴槽なら、何人入っても全く問題ありませんよ」


「ああー、たしかに、そうですねー」曾良の目が死んだ魚のようになっていることに、鈍感な芭蕉は気付かない。


「いつも曾良君にはお世話になっていますからね。こんな時くらい、背中を流させてください」


 曾良は心を無にしたまま、風呂を離れて客間へと戻る。


 それから、主人に用意してもらった湯手を二つ風呂敷に包み込み、再び風呂場へ戻った。


 その顔は、まさに戦場へ赴くつわもののようであったと、後に金森邸の主人は語っている。


「芭蕉先生、まずは私に背中を流させてください」


見た目に惑わされるべきではない。どんな姿になっても師匠は師匠なのだ。曾良は自分にそう言い聞かせて狐娘芭蕉の背を流した。


 夕飯には、主人が気を利かせて精の付くものをたくさん用意してくれていた。


 芭蕉が「美味しいですねぇ」と無邪気に食べ進める中、曾良は主人の誤解を解くために必死で弁明をしていたという。

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