平泉(二十)
中尊寺の入り口を出たところで、芭蕉は衣川へと続く道を眺めながら立ち止まった。
「曾良君。一関の宿に帰る前に、もう一箇所だけ立ち寄りたい場所があるのですが、良いですか?」芭蕉は疑問を解消できるかもしれない場所に心当たりがあった。
「もちろんです。どちらですか?」曾良が訊ねてくる。
「それは、到着してのお楽しみということにしましょう」芭蕉は微笑んで言った。
『芭蕉よ。そうは言っても、七の尾を使わなねば過去を垣間見ることも出来ぬぞ』九尾が芭蕉の口を借りて問いかける。
「過去を見られなくても良いのです」そう言って歩いていく芭蕉は、途中で船を借りて衣川を渡り、川沿いに上流方面へと土手の上を歩いていく。
「どこまで行かれるのですか、芭蕉先生?」曾良が心配して声をかけた頃、芭蕉は目的地に到着した。
「ここです。かつて、この先にあったのですよ。和泉三郎忠衡殿の居城が……」
芭蕉は五百年前の兼房が見た記憶を頼りに、忠衡の城跡へと辿り着いていた。
「国破れて山河あり、ですね……」曾良は寂しそうに呟いた。いまや城の面影跡形もなく、田畑となっている城跡は、まさに杜甫の詩のようであった。
「そうです。建物は無くなれど、山や河の形状は五百年程度で大きくは変わりません」芭蕉の関心は、建物から見えた山の形状にあった。「やはり、このあたりです。拙者が夢に見た、衣川の館があった場所は」
五百年前、源九郎狐と対峙した館の庭は広かった。
「月のない闇夜であったため、最初は気付きませんでしたが、夜が明けて拙者は驚きました。遠くに見える景色が、五百年後と全く異なっていたからです」
「つまり、衣川の館があったのは、義経堂が立っている場所ではなく、ここだったと言うのですか?」曾良は驚く。
「拙者が見た夢の中ではここにあったというだけのことですが……もしそうだったとすれば、衣川の館を囲むように五百騎もの敵兵が集まっている中、隣接する城にいるはずの忠衡が気付かないとは思えません」
芭蕉は、隣接する城跡を眺めつつ、五百年前の風景を思い出す。
「忠衡は義経側だったはずですから、その状況になれば間違いなく義経に加勢したでしょうね」曾良が言った。
「その状況で、忠衡が城にいれば、間違いなく加勢したでしょう。しかし、ここにいたのが義経本人ではなかったとすれば……」
「もしかして、芭蕉先生は衣川の戦いで殺された義経は影武者だったと言うのですか? 流石にそれは無理があるのでは」
「拙者が中尊寺で夢に見た過去では、義経は衣川の戦い当日に、全く別の場所で宴をしていました。そして、宴に参加していた義経の顔は、拙者が衣川の館で見た義経の顔とは全く違っていた。その時、拙者は思ったのです。我々が知る衣川の戦いと、実際の衣川の戦いとは、もしかしたら全く違ったのかもしれないと。衣川の戦いとは、義経を殺すための強襲ではなく、義経を死んだと見せかけるための奥州藤原氏の作戦だった。そうでしょう、忠衡殿?」
芭蕉の視線を追った曾良は、背後の草原に佇む武者姿の幽霊に気付いて驚いた。
「よくぞ、遠路はるばる参られましたな、狐娘殿。我が声が聞こえるということは、あなたが真実に到達したということに他なりません。これでようやく、あなたと言葉を交わすことができます」武者の霊が、狐娘芭蕉を褒め称えた。
「何か、忠衡殿が喋っているようですが……私にはよく聞こえません」曾良が困惑していた。
「それでは拙者からお話いたしましょう。衣川の戦いとは何だったのかを」芭蕉はそう前置きして、忠衡の言葉を引き継いだ。「奥州藤原氏の三代・秀衡公は、死の直前に兄弟を集めて言いました。兄弟一致団結して、義経を総大将として鎌倉殿と戦うように、と。そこまでは曾良君も知っている通りですね」
「えぇ、そのとおりです。にも関わらず、息子の泰衡は父の遺言を守らず、義経を自刃に追い込んだ、というのが広く知られている衣川の戦いでは……?」
「えぇ、拙者もそう思っていました。しかし、実際は違ったのです。奥州藤原氏は、秀衡亡き後も、義経を守ることを決めた。ただ、奥州の者ではない義経を総大将として戦うことは、郎党たちの士気にも影響するため、どうしても出来なかったのでしょう。そこで、無益な争いを避けるべく、四代・泰衡公は義経と話し合いの場を設け、義経は死んだことにして、鎌倉殿を騙して穏便に事を済ませようとした」
義経の影武者を準備して北へ逃れることは、義経と少人数の郎党だけでは難しい。少なくとも忠衡の協力は最低限必要だったと思われる。だが、忠衡だけでは足りない。義経の顔をよく知る泰衡公を騙して、影武者作戦を秘密裏に実行することは難しい。もしも義経が北に逃れたとするのなら、そこには、ほぼ確実に泰衡公の協力もあったはずなのである。
「それが本当だとしたら、歴史がひっくり返ります。奥州藤原氏は最後に鎌倉殿を騙し通してみせた、と?」曾良は、芭蕉の語る説を紙に書き留めようとしたが、芭蕉は笑ってそれを止めた。
「こんなものは歴史ではありません。こうあってほしいという、拙者のわがままな夢物語ですよ。歴史とは夢物語ではなく、事実として書き記され、多くの人が『真実』だと信じたことの積み重ねです。泰衡公が全部悪いとか、泰衡公は父の遺言を守らなかった悪人だとか。そういうことにしておいた方が何かと都合が良い人が大勢いたということです。そうですよね、忠衡公」
「我の口からは何とも言えませんが、そう信じていただけるならば、兄も浮かばれましょう」
忠衡公は嬉しそうに笑うと、肯定も否定もせずに消えていった。
「秀衡公の言葉は完璧に守られなかったものの、最後の最後で奥州藤原氏は一致団結して鎌倉殿に抗ったのですよ。義経を守り、北へと逃すことで……」
陸奥国には、今でも各地に北へ逃れる途中の義経や弁慶が訪れたという伝説が残る地が多くある。その全てが夢物語だと考えるのは、やや無理があるように思われる。
また、これより後のことであるが、忠衡公の子孫が北海道に居住していることが広く知られることとなり、忠衡公が生きて蝦夷地に逃れたのではないかという説さえも囁かれることとなる。
「曾良君。義経がここから北へ、蝦夷地まで行ったのだと考えたら、夢が広がりませんか。兵どもの夢は、この地では終わらなかったのですよ」
「えぇ、本当にそうですね……」
北の空は、雲ひとつなく、どこまでも青く澄み渡っていた。
その青を切り取るように、狐娘芭蕉の七尾が大きく膨らんで、ゆっくりと左右に揺れている。
『夏草や 兵どもが 夢のあと』
夏草が、風に揺れて優しい音を立てていた。




