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平泉(十七)

 松尾芭蕉も、以前に聞いたことがあった。


 義経や郎党たちは衣川の戦いで死んでおらず、北へと逃れたとする伝説が陸奥国の各地に残されている、と。


 しかし、芭蕉はそんな都合の良いことは無かっただろうと考えていた。


 いくら義経が賢かったとしても、泰衡の急襲に気付いて郎党や妻子とともに平泉を離脱することは難しい。


 そのうえ、鎌倉殿は数日前に義経が平泉にいることを確認している。


 衣川館で死んだ義経や郎党たちが影武者であったとして、その影武者をどうやって用意したのかという点も疑問であった。


(しかし、現にこうして判官どのや郎党たちが皆生きている様子を目の当たりにすると……、なおも疑うのは無粋かもしれないですね)


 もしかしたら、和泉三郎忠衡が便宜を図ってくれたのかもしれない。


 あるいは、歴史に名を残さなかった何者かの働きがあったのかもしれない。


 いまの芭蕉にはその真実を確認する術はないが、理由はどうあれ、これ以上この時代に留まる必要はないように思えた。


(これ以上、拙者がここで何かをすれば、源九郎狐の二の舞になってしまうかもしれません。速やかに帰ることとしましょう)


 芭蕉が七の尾の力を解除すると、世界に音が戻ってきた。



 元禄二年(一六八九年)五月十三日


「ここは……釈尊院五輪塔の前、ですね」周囲を見渡すと、そこは墓地であった。


『無事に戻って来られたようで何よりじゃ』九尾の声が脳内に響いた。


「あの、曾良君の姿がどこにも見えませんが……」不安になって、芭蕉は九尾に尋ねる。


『改変が大がかりだったため、事象にズレが生じることはよくあることじゃ。恐らく曾良も境内には居るはずじゃろう』と九尾が言うや否や、芭蕉は入口の方へと駆け出していた。


「居るはず!? 曾良君が居てくれなければ困るんですよ!」芭蕉は珍しく声を荒げた。


 改変の力の強大さと恐ろしさを、改めて芭蕉は痛感していた。


 たとえ光堂を取り戻せたとして、それで曾良がいなくなってしまうことがあれば、取り返しがつかない。


 曾良がいない旅など、芭蕉は考えたくも無かった。


 今回のみちのくの旅は、曾良がいなければ成立しないのだ。


『たわけ。少しは落ち着かぬか』九尾の声が聞こえて、芭蕉は珍しく自分が酷く取り乱していたことに気付いた。


 芭蕉は黙ったまま、息を落ち着ける。禅の呼吸は、いまは出来そうにない。


 手に持っている笠を見下ろすと、そこには江戸を旅立った時に芭蕉が書き付けた「同行二人どうぎょうふたり」の文字が残っていた。


(大丈夫。この文字があるということは、曾良君が同行しているということの証に違いありません)


 芭蕉は湧き上がってくる不安を振り払い、足早に墓地を抜け、木々の間の細い道を駆け戻っていった。

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