平泉(九)
文治五年(一一八九年)八月二十一日
平泉は炎に包まれていた。
敵兵によって火を放たれたのではない、四代当主・藤原泰衡が自ら町の中心部に火を放ったのである。
今から二か月ほど前のこと、義経を死に追いやった泰衡は、頼朝への恭順を示すため、衣川館の跡で義経と思われる首を探させ、鎌倉にいる頼朝へと報告書とともに届けさせた。
義経かどうか判別不明の首だけでは、頼朝の怒りは収まらなかった。届けた使いの者は全員が打ち首獄門となったらしい。
泰衡は、頼朝の許しを得ようとしたのか、さらに義経派であった三男・忠衡や通衡などを相次いで襲撃し殺害したが、これも頼朝の考えを変えるには至らなかった。
後の世に『奥州合戦』と呼ばれる戦が、同年七月から始まったのである。
源頼朝がいよいよ本格的に奥州征伐に乗り出すに至って、ようやく泰衡も「全ては頼朝の奥州藤原氏滅亡に向けた計略だった」と思い至ったが、後悔しても時は戻らない。
奥州藤原氏は、義経、忠衡、通衡を欠いた状態で、鎌倉軍と戦うこととなったのであった。
自ら出陣した源頼朝は、畠山重忠らを先陣に据えて、奥州へと進軍。その数はおよそ二万五千騎に及んだと言われている。
それを阿津賀志山で迎えうった総大将は、泰衡の異母兄である藤原国衡率いる二万騎の軍勢であった。
後に「阿津賀志山の戦い」と呼ばれるこの戦で大敗した奥州軍は、壊滅的な被害を受ける。
佐藤継信・佐藤忠信の父であり、佐藤庄司こと、佐藤基治も、この戦で命を落とすこととなった。
総大将の国衡も敗走に失敗し、あえなく討ち取られてしまう。
奥州藤原氏は、兵力のほとんどを失い、大規模な戦ができない状態となる。
多賀城も陥落し、平泉まで戻ってきたという泰衡は、もはや正気ではなかった。
「奥州藤原氏の理想郷・平泉。敵の手に渡るくらいなら全て灰と化してやる!」と言わんばかりに、平泉の重要な施設や家々に火を放つ泰衡を止めてくれる者はもはや誰も残っていなかった。
平泉の政治的中心であった平泉館をはじめ、三代・秀衡によって建立された寺院・無量光院なども炎に包まれていくなか、泰衡は涙を流して笑っていた。
「命じられたとおりに義経を討ったではないか! なぜ褒められるどころか、攻められなければならないのだ! 悪いのは全て、義経を庇うべきなどと言った親父や弟どもではないか! 自分は何も悪いことはしていない! それなのに、どうしてこうなるんだ! どうしてこうなってしまったんだ!」
泰衡は燃え上がる平泉を放置し、更に北の大地へと逃れるべく、去っていった。
その一部始終を見届けるしかなかった源九郎狐は、自分の不甲斐なさに憤りを感じていた。
元禄二年(一六八九年)五月十三日
「結果的にヨシツネ様の命を奪うことになってしまった『改変』の力は、もう使うわけにはいかなかった。そこで、我は再び那須の地を訪れ、その力を師匠にお返ししたのだ。奥州へ向かう道中に借り受けた力であったが、我にとっては過ぎたる力だった。二百年ほど後になって再びこの奥州の地にこの力が降ってきた時は、さすがに運命的なものを感じずにはいられなかったがな」
源九郎狐の語る昔話は、妙な真実味が感じられた。
「兼房は、どうなったのですか?」曾良は恐る恐る尋ねた。
『義経記』で描かれる兼房の最期は、壮絶である。一説によれば、敵の一人を馬ごと切断した後、もう一人の敵を抱えて燃え盛る炎の中に飛び込み、道連れにしたとも言われている。
もし芭蕉が夢の中で兼房になっているのだとすれば、そんな恐ろしい経験をすることになってしまうかもしれない。曾良は眠りから覚めない芭蕉が心配で気が気ではなかった。
「安心せよ。カネフサは死んでおらぬ。なぜなら……」源九郎狐は、一瞬口ごもった後、続けた。「いまこうして面と向かって話している身体こそ、カネフサのものであるからな」
源九郎狐の言葉に、曾良は耳を疑う。




