白河の関
「危ない!」曾良が咄嗟に叫んだものの、回避は間に合わない。
振り下ろされた刀は、無情にも芭蕉の胸元を縦に切り裂いた。
時は元禄二年(一六八九年)四月二十一日
陽暦の六月八日にあたるこの日は、朝から霧雨である。
みちのくの入口、『白河の関』。
そこで芭蕉と曾良を待ち受けていたのは、平安時代末期の武将・源頼政の残留思念であった。
源頼政は、九尾の狐によって不治の病に苦しめられた鳥羽上皇に仕えていた経歴を持つ。
すなわち、頼政にとって、九尾の狐の力を受け継いだ今の芭蕉を見逃すことは到底不可能だったのである。
頼政は、酒呑童子討伐などの逸話でも知られる源頼光を祖とする摂津源氏の退魔武士であった。
死してなお、その退魔刀術は衰えを知らず、頼政全盛期の一閃が芭蕉へと襲い掛かった。
「芭蕉先生ッ!」
曾良の目の前で、ゆっくりと狐娘芭蕉の胸が裂け、着物の帯は地に落ちた。だが、血が噴き出すことはない。
「血気盛んじゃのう、源頼政」
狐娘芭蕉の声だが、その口調は明らかに芭蕉のものではなく。
「貴様、やハり九尾か!」
頼政は素早く振り返るがもう遅い。
『古池や蛙呑みこむ水の音』
決着は一瞬であった。
「見事ッ……」という言葉を残し、龍と化した古池の水に飲み込まれた源頼政の霊。
水が消えた後に残されたのは、一匹の蛙のみである。
斬られたはずの狐娘松尾芭蕉の身体には、確かに傷一つない。
地に落ちたはずの帯すらも、いつの間にか元に戻っていた。
曾良には、眼前の狐娘が芭蕉本人とは、どうしても思えなかった。
「九尾……? まさか、九尾の狐の魂が、先生に取り憑いているのですか!?」
「やれやれ。気付かれてしまっては仕方ないのう」未だ一尾の狐娘は、その黄金色の冷たい瞳で曾良を真っすぐに見据えた。
「先生の身体を返してください」と、九尾の狐に向かって言えるほど、曾良は強くなかった。
蛇に睨まれた蛙のように、身体がすくんでしまって動けない。次は自分が蛙に変えられる番かもしれないと思うと、震えが止まらなかった。
「やれやれ、我としたことが、つい表に出てきてしまった。大人しく隠れていようと思っておったのじゃが……。おぬしに手は出さぬ。安心するがよい」
狐娘が尊大な態度で曾良にそう言い放つと、ようやく曾良は動けるようになった。
「あ、ありがとうございます。助けてくださって……」
「なに、この依り代に死なれては困るのでな。つい助けたまでじゃ。……ふぅ。少し力を使いすぎたのう。曾良とやら、我はまたしばし眠りにつくが、この依り代のこと頼んだぞ?」
狐娘はそう言うと、ふっと意識を失って曾良へと倒れかかってくる。
「先生ッ!」
慌てて細身の狐娘を受け止める曾良。
卯の花が白く咲いた草むらに、眠りについた狐娘とともに倒れこんだ曾良。
「痛っ……」
ゆっくりと起き上がった曾良は、深い眠りについた狐娘に膝枕をしながら、しばし呆然とするばかりであった。
倒れた衝撃で千切れた卯の花が、狐娘の頭に載って、美しい髪飾りのようになっている。
「芭蕉先生……」
曾良は思わず見惚れるところであったが、直後にうっすらと狐娘の目が開いていることに気付いて背筋を正した。
「曾良君? 拙者はいったいどうなって……」
「芭蕉先生、気が付かれましたか!」
「確か何者かに刀で切り掛かられて……それから、思い出せません……」
「……大丈夫です! 何ともありませんでした!」嘘である。
曾良は、芭蕉が真実を知ったら不安になるだろうと思い、黙っていることにしたのだった。
「『頼りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は超えぬと』という歌を詠んだのは平兼盛でしたが、こうして関の前に辿り着くと、関を越えていく感動を都へどうにか届けたいという気持ちもよく分かりますね」
自分が弟子に膝枕をされていたことに気付いた芭蕉は、恥ずかしそうに起き上がると、照れ隠しに『白河の関』の話をしはじめた。
「能因法師の歌もありましたね」
「そうですね。源頼政や、藤原定家、藤原季通、大江貞重などの歌も有名です。実に多くの歌人が、この白河の関で歌を残しているのです。ここらで、曾良君も一句いかがでしょう。秋風や紅葉の歌が有名ですが、今の季節も素敵ですよ」
「そういうことでしたら、実はひとつ思いついたものがございます」
曾良は、思い切って歌を披露することにした。
『卯の花をかざしに関の晴れ着かな』
かつて、古の人はこの関を越える時に冠を被り直し、衣服を正装に整えてから越えたという。
「我々は冠こそ被っていないものの、せめてこの卯の花を挿頭して晴れ着としましょう」という粋な歌であった。
狐娘芭蕉は小さく驚いて耳をぴんと立てると、嬉しそうに笑った。
「なかなか良い歌です。曾良君も日々成長していますね」
「ありがとうございます。これからも頑張ります」
ふたりの傍らで、蛙が控えめに鳴いていた。