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遊行柳

 かの玉藻前にも圧倒的な短歌の才があったと伝えられている。

 ゆえに、松尾芭蕉に九尾の魂が馴染むのも必然のことであったと言えよう。


「くふふ、松尾芭蕉よ。狐になった気分はどうかの?」

微睡みの中で、何者かが芭蕉に語り掛けてきた。それは年若い女性の声であったが、芭蕉に聞き覚えはなかった。


 芭蕉は何かを言おうとしたが、口から出てきたのはか細い狐の鳴き声だけである。


「まだ対話が出来るほど馴染んではおらぬか。まぁ、今は喜ぶがいい。九尾の力を授けたがゆえ、お主は我が妹となったのじゃ」

声は、驚くべきことを告げた。


「我は九尾の狐。かつて、ある娘に取り憑きてこの国を支配してやろうとしたが、失敗してのう。この地に封印されたことについては恨んでおらぬが、せっかく蓄えた九尾の力を全国に散らされてしまい、このままでは消滅してしまう定め……。お主には全国を巡り、封印されし我が力を集めてほしいのじゃ」

九尾の力を取り戻したら、再び『傾国の妖狐』として復活してしまうのではないか? この国を滅ぼす手伝いなどできるはずがない。松尾芭蕉は心の中で思った。


「くふふ、数百年も封印されれば、もう懲りたとも。力を取り戻したとて、この国を支配しようなどとは思っておらぬ」それは、甘く優しい響きをもって、疑う間もなく心に浸み込んでくるような妖艶な声であった。「まぁ、信じようと信じまいと、おぬしが元の姿に戻りたければ、我の尾を集めるしかないのじゃがな。せいぜい他の者に力を奪われぬよう、気を付けることじゃ……くふふ」


次第に女性の声が遠のいて、小さくなっていく。


「芭蕉先生、起きてください!」

「ひぇっ! そっ、曾良君!?」

木陰で眠っていた芭蕉は草の上で飛び起きた。既に太陽は天高く昇っているようだ。

「うなされていたので、心配したんですよ。悪い夢でも見たんですか」

「はっきりとは覚えていませんが……恐らくはそんなところです」芭蕉は思わず嘘をついてしまったが、実際はよく覚えていた。

 ただ、先ほど微睡みの中で言われたことを伝えれば、曾良君のことも巻き込んでしまうかもしれない。芭蕉はそう警戒したのだった。


 元禄二年(一六八九年)四月二十日


 芭蕉が狐娘になった翌日のことである。

 小さくなった身体のせいか、あるいは昨晩色々と不安で寝付きが悪かったせいか。

 芭蕉は、宿を出発してから微睡み始めてしまい、曾良に背負われてすぐ眠ってしまったのであった。


「曾良君、すみません。昨日に続いて、たいへんご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、そんなことおっしゃらないでください! 芭蕉先生、すっかり体重も軽くなりましたので、背負って歩いても全然平気ですよ。……そうそう、先生が眠っている間に、着いたんですよ。ほら、この柳の木だそうです」曾良が言って、芭蕉は本日の目的地のことを思い出した。


 田の畔にどっしりと根を張った柳を、芭蕉は感嘆の声とともに見上げた。

 それは、遊行柳ゆぎょうやなぎと呼ばれる柳の木であった。


 那須町芦野に現存するその柳は、たいへん有名な木である。

 狐娘になってしまったことも忘れるほどに、芭蕉は感動していた。


『道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ』

思わず芭蕉が暗唱したこの歌は、西行さいぎょう法師という平安時代末期の歌人の詠んだものだ。


「五百年以上前に西行が休んだ木陰で、芭蕉先生とふたりで今こうして休んでいると思うと、とても感慨深いです」

「えぇ、本当に。本当にそのとおりですね」


 何を隠そう、芭蕉は西行法師の五百回忌に合わせて『おくのほそ道』の旅に出発したのだった。

 『おくのほそ道』の旅は、崇敬する歌人の足跡を辿る、いわば「聖地巡礼」の旅である。

 その目的地の一つに到達した松尾芭蕉は、感極まっていた。


『田一枚植ゑて立ち去る柳かな』

しばし後、芭蕉が不意に詠んだその歌とともに、芭蕉と曾良の間を一陣の風が吹き抜けていった。


「少しばかり休憩するつもりが、ずいぶん長いこと柳を眺めていたようですね。ほら、田んぼが一枚植えられてしまっていますよ」

背後の田んぼでは、早乙女さおとめたちが目を丸くして顔を見合わせていた。突風のせいだろうか。

「あれっ、つい先ほどまで、ほとんど植わっていなかった気がしますが……」

曾良も少し疑問に思ったが、時間を忘れるほど柳に見入っていたのかと思い直す。


 この句の解釈は現代においても諸説あるが、「田を植えたのは誰なのか」という点については、「早乙女」とする説以外に、「芭蕉自身」とする説も存在している。

 

 とはいえ、それは田を一枚植えるという奉仕を西行法師に捧げるという意味合いの説であって、芭蕉が歌を詠んだことで田一枚が瞬時に植えられたなどという解釈ではない。


 そんなことがあるはずはない。曾良もこの時はまだ、そう思っていたのである。

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