松島(三)
「まったくもって、不愉快極まりないのじゃ! 政宗や十兵衛が世を去ってから塞ぎこんでおったのはあやつの方じゃろうが……」九尾の狐は、ご立腹であった。怒りすぎて、狐の尻尾が倍の大きさに膨らんでいる。「もう良い、一刻も早くこの地を離れて平泉へ向かえ、曾良!」
「まぁまぁ、お気持ちは痛いほど分かりますが、まだ芭蕉先生がずっと楽しみにしていた『松島の月』すら堪能できていないですから。せめて出発は明日にさせてください」
芭蕉は、みちのくに向かう旅に出る前から、『塩竈の桜』や『松島の月』を楽しみにしていたという。
「我はもう知らぬ。お主らの好きにするがよい! じゃが……この地で何か面倒事に巻き込まれても助けたりはせぬからな!」九尾は捨て台詞を吐いて芭蕉に身体を返した。
思い返してみれば、独眼龍はわざとらしく九尾を挑発しているようだった。
それは恐らく、九尾が逆上して争いとなることを期待してのことと思われるが、九尾もそれを理解していたために上手く話題を逸らすなどして事なきを得ていた。
それはそれとして、怒りが消えるわけではないことは確かである。
「困りましたね。完全に出鼻をくじかれてしまいました」ようやく九尾から身体を返してもらえた芭蕉は苦笑する。
「すみません。ただ見ていることしかできませんでした」曾良は自分の不甲斐なさを痛感していた。
「いえいえ、むしろ曾良君が無理をしなくて本当に良かったですよ。あれで良いのです」芭蕉は言った。
九尾が身体を動かしている時であっても、芭蕉は九尾の内で見聞きすることができるようになってきた。もっと慣れてくれば、九尾から身体の自由を奪い返すこともできるようになるのかもしれない。芭蕉はそう思っていた。
「九尾の狐は、長い年月を生き、大陸から渡ってきたと言われていますから、松島のような美しい景色は飽きるほどに見てきたのでしょう。洞庭湖や西湖なども、九尾の狐は訪れたことがあるのかもしれません。拙者は、それがとても羨ましく思えてなりませんよ」
二代将軍・秀忠の頃より、江戸幕府は鎖国政策を推し進めていたというが、寛永十四年(一六三七年)の「島原の乱」以降は特に対応が顕著となった。
海外との貿易を計画していた伊達政宗公も大きな痛手を被ったと言われている。
幕府が海外在住の日本人の帰国まで禁止としたことで、結果として、海外の景色を見に行こうなどと考える者はいなくなっていた。
オランダ・清国・朝鮮などは例外として、外国との貿易も厳しく制限されているほどである。
「私たちにとって、海の向こうの国の景色は、想像する他ないですからね……」曾良は海の彼方にあるであろう遠い異国の地に思いを馳せた。
加右衛門の紹介状を持って、久之助という者の家を訪ねると、ありがたいことに泊めていただけることとなった。
案内された二階の部屋に荷物を置いた芭蕉と曾良は、気を取り直して、雄島が磯へと向かうこととする。
遠目からは島のようであったが、陸と地続きになっているので歩いて渡ることができた。
雄島が磯には、瑞巌寺の改築にも尽力したという雲居禅師が座禅を組んだという座禅石があったので、念のため触れてみる。尻尾に反応はない。
「流石に雲居禅師と言えど、殺生石の欠片を座禅石には使いませんよね」冷静になって考えると恥ずかしくなってきた芭蕉は頭を掻いて苦笑した。
雄島が磯の松林を歩けば、ちらほらと世捨て人の姿も見られる。須賀川で出会った栗鼠法師・可伸のことなどが思い出されて懐かしくなった。
そんな世捨て人が建てたと思われる一軒の草庵から煙が立っていた。
何やら松の葉や松ぼっくりなどを燃やしているような臭いが漂ってくる。
妙に心惹かれるところがあり、覗き込んでみると、まだ年若く見える娘と目が合ってしまった。
驚いた芭蕉が思わず「これは失礼しました」と去ろうとすると、草庵の中から「寄っていったらええのに」と呼び止められる。
「お邪魔してもよろしいのですか」恐る恐る尋ねる曽良に、ぼろ切れのような服を身にまとった娘は、にこやかに微笑んだ。
「構しまへん」見た目とは裏腹に堂々たる風格を感じさせた。なぜこんな年若い娘が世捨て人に? と疑問に思ってよく見てみれば、娘の頭には龍のような褐色の角が二本生えている。
「ここには二十年以上おるけど、うちの庵に、こないな可愛いお客はんが来るのんは初めてどす」五郎八と名乗った娘は、芭蕉の狐尻尾を気に入ったようで、撫でたいと言うので了承すると嬉しそうにずっと撫でていた。
次第に日が暮れていき、夕月が穏やかな海に写りこんだ。
昼間の風景とはまた違った良さがある。
「それでは、私たちはこの辺りで」曾良が先に立ち、来た道を戻っていく。後ろからは、見送るように五郎八が付いてきていた。
「おや?」確かに元来た道順を逆に辿ったはずなのに、海に出てしまった。辺りを見回してみても、雄島が磯の周りに陸と繋がっている場所はない。
「おふたりは、この海の上を歩いてきたんどすか?」
「いえ、そんなはずは……」曾良は困って芭蕉に助け舟を求めるが、芭蕉も同じく悩んでいた。
「たしかに、この辺りが陸と繋がっていたはずなのですが。もしかして、一日のうちで数刻だけ陸と繋がるということでしょうか」
「うちは、陸と繋がってるとこなんて、見たことあらへんなぁ」残念そうに首を横に振る五郎八。
「ところで、話は変わるんやけど……」五郎八は近くの石段に腰かけると、唐突に訪ねてきた。「あんたら、どうして殺生石の欠片なんて探してるん?」




