殺生石
俳人・松尾芭蕉が、『おくのほそ道』の旅の途中で、那須の殺生石に立ち寄ったことは有名な話である。
しかしながら、殺生石に近づいた松尾芭蕉が、見目麗しい狐娘の姿に変えられてしまったということは、あまり知られていない。
元禄二年(一六八九年)四月十九日
殺生石は、絶え間なく温泉が湧き出る山の中腹に鎮座していた。
山肌には、九尾の毒気にやられたように草の生えない緩やかな斜面が広がっている。
日に照らされた白色、灰色、褐色などの大小さまざまな岩々で構成された斜面を、小川が日光で煌めきながら流れくだっている。
川の水には温泉が混ざっているのだろう。
独特な香りが強く、茹った蝶や蜂などが次々と流されていった。
三途の川とは、このような風景なのであろうか。
松尾芭蕉はそんなことを考えながら、殺生石に向かって斜面を登っていた。
四十代半ばで旅に出たとは言え、松尾芭蕉は健脚である。
この程度の斜面、何ということはない。
芭蕉が弟子の曾良とともに、この那須の地に立ち寄ったことは、単なる偶然ではない。
かの有名な九尾の狐・玉藻前の伝説の舞台にして、追い詰められし九尾の狐が変じたという殺生石が残されている景勝地だ。
芭蕉も玉藻前の伝説をよく知っており、是非とも今回の旅で訪れたいと考えていた場所の一つであった。
だが、そんな芭蕉でも、平安時代から五百年以上が経ってもなお、殺生石に九尾の狐の力が宿り続けているとは、全く予想だにしていなかった。
「な、なんだ、これはっ!?」
殺生石の周囲から突如として噴き出した濃い蒸気に、先を歩いていた松尾芭蕉の身体は完全に覆い隠されてしまった。
「芭蕉先生っ!」
同行していた弟子の曾良が慌てて蒸気の中に飛び込もうとするも、凄まじい熱気と硫黄臭に激しくむせてしまい、引き下がらざるを得なかった。
まもなく風が通り抜け、蒸気が晴れると、松尾芭蕉の姿はどこにもない。
そこには、身の丈に合わぬ旅装をまとった一尾の小柄な狐娘が、けほけほと小さくむせているばかりであった。
「……芭蕉先生?」
「あぁ、曾良君。拙者はこのとおり無事……?」
曾良の問いかけに、まるで松尾芭蕉のごとく応じた狐娘は、自身の甲高い声に戸惑った様子である。
大きすぎる旅装の袖に埋もれた手で、布越しに喉元を触って確かめたり、咳払いしたりしている。
そんな狐娘に、曾良は見惚れていた。
狐娘とは、文字通り、二足歩行の狐といった印象の娘である。
金色の美しい毛皮に身を包んでいるが、顔と胸元と尾の先端だけは雪のように白い毛であった。
「これが……拙者の手……?」
狐娘が旅装の袖をまくると、鋭い爪と肉球がついた小さな手が現れた。
毛皮で覆われているものの、人間の手のように物を持てる形状をしている。
そんな自身の両手を見下ろして、その肉球をたっぷりと眺め、両手を閉じたり開いたりして具合を確かめていた狐娘は、曾良の視線を感じてはっと正気を取り戻した。
「そ、曾良君。拙者の姿は、どう見えますか?」震える声で、狐娘が問いかけてくる。その潤んだ瞳は透き通るような黄金色をしていた。
「多くの人を虜にしてしまうほどの、愛らしいお狐様かと存じます」曾良は即答した。
「狐ぇぇぇ!?」目をまん丸に見開いて、童子の悲鳴のような声をあげる狐娘。
そして、狐娘は、ふと気付いた様子で自身の背後に手を回すと、服越しに何かを掴む。
「んっ……なんと敏感な尾じゃ……確かに拙者から生えておる」狐娘が恥ずかしそうに小声で呟いた。
曾良は、この時のことを『狐娘、尊し』と旅日記に書き残している。
明らかに人ならざる存在を見た人間は、本来恐怖を抱くはずである。
だが、この狐娘の場合は違った。
恐怖以上に保護したくなる、そんな愛くるしさがあったのだ。
「まさかと思いましたが、あなたは本当に芭蕉先生なのですか?」
「そ、そのとおりですよ。曾良君。我ながら、こんな姿で芭蕉だと言い張ったところで説得力はないですが……」
考えることしばし、狐娘は手をぽんと叩いた。
石の香や夏草赤く露暑し
息を吐くように、狐娘は瞬時に一句を詠んでみせた。
「どうですか? ただの狐にこのような句は読めないでしょう」
モフモフの狐尻尾をふりふり、最初は自信ありげに微笑んでいた狐娘であったが、次第に出来が不安になってきたのか、その場で「ああでもないこうでもない」と呟きながら推敲を始めてしまう。
長年、弟子として芭蕉と過ごしてきた曾良には、その様子を見ただけで確信できた。
信じがたいことだが、目の前にいる狐娘は間違いなく芭蕉先生なのだな、と。
「ここに長居すべきではなさそうですね」
曾良はそう言うと、そっと服を正してから芭蕉を背負い、殺生石から離れた。
「ちょっ、子どもみたいで恥ずかしいから降ろしてください、曾良君!」
「子どもみたいじゃなくて、子どもの姿になっているんですから、ここは私に任せてください、芭蕉先生!」
「そうですか……? いや、やはり、拙者は自分の足で歩きたいのです! 曾良君、降ろしてください! 曾良君!」
地面から立ち上る温泉の香りと、狐の香りとが混ざった何とも言えぬ香ばしさに包まれながら、師弟は賽の河原のような斜面を仲良く下っていくのであった。