殺生石
俳人・松尾芭蕉が、『おくのほそ道』の旅の途中で、那須の殺生石に立ち寄ったことは有名な話である。
しかしながら、殺生石を訪れた芭蕉が、見目麗しい狐娘の姿に変えられてしまったということは、あまり知られていない。
元禄二年(一六八九年)四月十九日
「殺生石の近くでは、今でも時折、獣や鳥が死んでいることがあるのでございます」
昨日泊まった温泉宿『和泉屋』の主人・湯本五左衛門が案内してくれたので、殺生石があるという斜面の下までは迷わずに来ることができた。
「それは、何とも恐ろしい話ですねぇ。殺生石の伝説の由来となった、山の毒気でしょうか?」
五左衛門の話を真剣に聞いて手元の紙に書き記しているのは、芭蕉の旅に同行している弟子の曾良であった。
「えぇ、おっしゃるとおりでございます。今日は風があるから良いですが、風のない日は特に毒気が貯まりやすいと聞きます。くれぐれも殺生石には近付かないでくださいね。柵の手前から見ていただく分には問題ありませんので。それでは私はこの辺で失礼いたします」
そう言い残した五左衛門は、芭蕉と曾良の二人を残して宿に帰っていった。
「これは、なんとも凄まじい光景ですね、曾良君」
「本当ですね。想像を遥かに超えていました」
殺生石は、温泉が湧き出る山の中腹に鎮座していた。
なだらかな山肌には、石の毒気にやられたかのように草の一本も生えない岩場の斜面が広がっている。
斜面を流れる小川の水には温泉が混ざっているのだろう。周辺には鼻を突くような独特な香りが立ち込めていた。
日に照らされた白色、灰色、褐色などの大小さまざまな岩々で構成された山肌を、煌めく小川が流れ下っている。
その小川沿いには蜂や蝶が重なり合って無数に死んでいるのであった。
「今の拙者たちは、あの世とこの世の狭間にいるのかもしれませんね」芭蕉は呟く。
死後の世界とは、このような風景なのであろうか。
芭蕉はそんなことを考えながら、殺生石に向かう道を登っていた。
四十代半ばで旅に出たとは言え、松尾芭蕉は健脚である。
この程度の斜面、何ということもなく登ることができた。
芭蕉が弟子の曾良とともに、この那須の地に立ち寄ったことは、単なる偶然ではない。
かの有名な九尾の狐・玉藻前の伝説の舞台にして、追い詰められし九尾の狐が変じたという殺生石が残されている景勝地だ。
芭蕉も玉藻前の伝説をよく知っており、是非とも今回の旅で訪れたいと考えていた場所の一つであった。
だが、そんな芭蕉でも、平安時代の終わりから五百年以上が経ってもなお、殺生石に九尾の狐の力が宿り続けているとは、全く予想だにしていなかった。
「な、なんだ、これはっ!?」
曾良が目を離した隙に、芭蕉が柵を越えて殺生石に触れた直後のこと。
石の周囲から突如として噴き出した濃い蒸気に、松尾芭蕉の身体は完全に覆い隠されてしまった。
「芭蕉先生ーっ!」
曾良が慌てて蒸気の中に飛び込もうとするも、凄まじい熱気と硫黄臭に激しくむせてしまい、引き下がらざるを得なかった。
まもなく風が通り抜け、蒸気が晴れると、松尾芭蕉の姿はどこにもない。
そこには、身の丈に合わぬ芭蕉の旅装をまとった一尾の小柄な狐娘が、けほけほと小さくむせているばかりであった。
「……芭蕉先生?」
「あぁ、曾良君。拙者はこのとおり無事……?」
曾良の問いかけに、まるで松尾芭蕉のごとく応じた狐娘は、自身の甲高い声に戸惑った様子である。
大きすぎる旅装の袖に埋もれた手で、布越しに喉元を触って確かめたり、咳払いしたりしている。
そんな狐娘に、曾良は見惚れていた。
狐娘とは、文字通り、二足歩行の狐といった印象の娘である。
金色の美しい毛皮に身を包んでいるが、顔と胸元と尾の先端だけは雪のように白い毛であった。
「これが……拙者の手……?」
狐娘が旅装の袖をまくると、鋭い爪と肉球がついた小さな手が現れた。
毛皮で覆われているものの、人間の手のように物を持てる形状をしている。
そんな自身の両手を見下ろして、その肉球をたっぷりと眺め、両手を閉じたり開いたりして具合を確かめていた狐娘は、曾良の視線を感じてはっと正気を取り戻した。
「そ、曾良君。いまの拙者の姿は、どう見えますか? 身体が随分と軽くなった気がするのですが……声も……」震える声で、狐娘が尋ねてくる。その潤んだ瞳は透き通るような黄金色をしていた。
「どこから見ても、愛らしいお狐様かと存じます。多くの人を虜にしてしまうような」曾良は即答した。
「狐ぇぇぇ!?」目をまん丸に見開いて、童子の悲鳴のような声をあげる狐娘。
そして、狐娘は、ふと気付いた様子で自身の背後に手を回すと、服越しに何かを掴む。
「んっ……なんと敏感な尾じゃ……確かに拙者の身体から生えておる」狐娘が恥ずかしそうに呟いた。
曾良は、この時のことを『狐娘、尊し』と旅日記に書き残している。
明らかに人ならざる存在を見た人間は、本来恐怖を抱くはずである。だが、この狐娘の場合は違った。
恐怖以上に保護したくなる、そんな愛くるしさがあったのだ。
「まさかと思いましたが、あなたは本当に芭蕉先生なのですね?」
「そ、そのとおりですよ。曾良君。我ながら、こんな姿で芭蕉だと言い張ったところで説得力はないですが……」
考えることしばし、狐娘は手をぽんと叩いた。
『石の香や夏草赤く露暑し』
息を吐くように、狐娘は瞬時に一句を詠んでみせた。
「どうですか? ただの狐にこのような句は読めないでしょう!」
モフモフの狐尻尾をふりふり、最初は自信ありげに微笑んでいた狐娘であったが、次第に出来が不安になってきたのか、その場で「ああでもないこうでもない」と呟きながら推敲を始めてしまう。
長年、弟子として芭蕉と過ごしてきた曾良には、その様子を見ただけで確信できた。
信じがたいことだが、目の前にいる狐娘は間違いなく芭蕉先生なのだな、と。
「ここに長居すべきではなさそうですね」
曾良はそう言うと、そっと服を正してから芭蕉を背負い、殺生石から離れた。
「ちょっ、子どもみたいで恥ずかしいので降ろしてください、曾良君!」
「子どもみたいじゃなくて、子どもの姿になっているんですから、ここは私に任せてください、芭蕉先生!」
「そうですか……? いや、やはり、拙者は自分の足で歩きたいのです! 曾良君、降ろしてください! 曾良君!」
地面から立ち上る温泉の香りと、芭蕉から漂いはじめる狐の香りとが混ざりあって、何とも言えぬ香ばしさに包まれながら、師弟は賽の河原のような斜面を仲良く下っていくのであった。




