宮城野(四)
曾良が茶碗に口を付けようとした瞬間である。
閉ざされていた茶室の入口が勢いよく開き、茶碗と曾良の間に、金色の尻尾が差し込まれた。
「先生!?」その尾を見て、曾良はすぐに芭蕉だと気付いた。
どうしてここに、と問いかける隙もなく、曾良は天日に干した布団のように香ばしい尻尾に口元を塞がれる。
「その茶を口にする必要はありません。早く茶碗を置いて拙者の後ろに!」
芭蕉の尾が膨らんで、五本に分かれる。臨戦態勢である。
曾良は茶碗を割らぬように丁寧に畳みの上に戻し、芭蕉の言う通りにした。
「曾良君を狙ったこと、許しませんよ!」芭蕉は、すかさず次の一句を紡いだ。
『蛸壺やはかなき夢を夏の月』
狭い草庵に逃げ場はない。どこからともなく現れた巨大な蛸が、八本の触手で老爺を捕らえた。
老爺の姿は儚くも揺らぎ、狸娘の本性が露わとなる。
「ほほう、この儂の『変化』まで掻き消すとは。お前さん、面白い術を使うのう」
草庵の小窓から差し込んだ月光が、ふくよかな狸娘の姿を映し出す。
巨大な蛸によって捕らわれた狸娘は、まるで男性のように体格がよく、身長は六尺(約一八〇センチメートル)ほどあるように見えた。
着物を羽織った大柄の狸といった風貌であるが、その胸元は人間の女性のように膨らんでいる。
芭蕉は畳の上に置かれた茶碗を一瞥してから、狸娘を真っすぐに見上げた。
「あなたが草庵に掛けた金縛りの術も、拙者には通じませんよ。事を荒立てるつもりなら、容赦はしません」
頭上の耳をぴんと立たせ、狐娘芭蕉は眼前の刺客に身構える。
「ふぇっふぇっ、儂の術を瞬時に看破するとは、流石は九尾の力じゃ」狸娘は楽しそうに笑う。しかし、その目だけは笑っていなかった。「この草庵を蛸壺に変えることで、儂の力まで封じたか」
しばし、狐娘と狸娘の睨み合いが続いた。
「もう拙者たちに関わらないというのであれば、解放し、見逃しましょう」芭蕉はそう告げた。
「お前さんに勝てる算段も残っておらぬ。ここは潔く、儂の負けを認めよう。助けてくれ」
狐と狸の化かし合いは、こうして瞬く間に終わったのである。
巨大な蛸が消えた後の狸娘の動きは素早かった。
一歩下がり、畳に膝を付くと、伏せるように深々と頭を下げた。
「儂は、幕府より命を受け、河合曾良殿にこの書状を手渡すべくやってきた者じゃ」
「では、これまでのことは演技……!?」曾良は驚きを隠せない。
「無論じゃ。曾良殿の口がどれほど堅いか、試させてもらったまでのこと」狸娘は伏せたまま答えた。「芭蕉殿に憑いている狐が九尾であるという情報も得ていたのでな、芭蕉殿や曾良殿が九尾の傀儡と成り果てているようであれば、世の平穏のため、儂がここで止めるつもりじゃった」
「あの……」曾良は恐る恐る言った。「確かに九尾の狐の力でこのような姿になっていますが、先生はただ歌を詠んで歩いているだけです。世を乱すようなことはしません」
「確かに、お二人のご様子を見る限り、そのような心配は無さそうじゃ。このたびは、たいへん失礼つかまつり候」
時折、九尾の狐が芭蕉の身体を乗っ取っていることは黙っておいた方がよさそうだ。曾良はそう思った。
「平和な世のため、全国各地を巡り、怪しい存在があらば、茶を振る舞って取り調べを行うのが儂の今の使命じゃ。儂の茶術は、飲んだ者の魂とつながり、記憶や思考までをも覗き見ることができる」狸娘は引き続き伏せたまま言った。
「確かに取り調べには最適な術のようですね。隠し事はできないというわけですか」芭蕉は足元の狸娘が妙な動きをしないか警戒しつつ言った。
もし茶を飲んでいたら、ここまでの旅で思考した全てのことを狸娘に知られることになっていただろう。後ろめたいことは無いが、曾良は少しだけ背筋が冷えた。
「曾良殿にも、たいへん怖い思いをさせてしまったのじゃ。詫びと言ってはなんじゃが、書状の内に路銀をいれておる。宿代や馬代としてくだされ」
あくまで幕府からの路銀ではなく、謝罪の費用として渡すことこそが、狸娘の目的だったのかもしれない。
「それならば、今回の件は許しましょう。ですが、次に曾良君を怖がらせるようなことがあれば、拙者はあなたを決して許しません」
「はい。二度とお二人を試すようなことは致しませぬ。この千利休の名に掛けて」狸娘は大きな体格を小さく小さく縮こめるようにして、誓った。
「あなたが、千利休……!? 遥か昔に死んだはずでは……!?」今度は芭蕉が驚く番であった。
千利休。徳川家康が江戸に幕府を開くよりも前に、豊臣秀吉によって切腹させられたという伝説の茶人である。
大永二年(一五二二年)生まれの千利休と同一人物だとすれば、元禄二年(一六八九年)時点で、百六十七歳ということになる。
「人間だった儂は確かに一度死んだも同然じゃ。ゆえあって畜生の身に転生せし後は、憎き豊臣一族を倒し平和な世を築いてくれた幕府に忠誠を誓っておる」
そもそも千利休が狸娘だったなどという話は聞いたことがないが、目の前にいる狸娘が嘘を付いているようにも見えなかった。
書状も葉っぱを化かしたようなものではなさそうである。曾良が受け取ると、書状の中に硬い感触があり、それが路銀だと分かった。
草庵が建っていたのは、宮城野の外れであった。
草庵から外に出てみると、先ほどまで出ていたはずの夏の夜の月はどこへやら、まだ夕刻である。
草庵の入口に掛けておいた笠を取って、芭蕉は曾良に手渡す。
「この匂いを辿ってここまで来ることができました。曾良君が無事でよかったです」
そう言って笑った芭蕉の草履はボロボロだった。
曾良には、芭蕉が自分を探して草履がこんな風になるまで駆けてきてくれた光景が想像できた。