宮城野(一)
元禄二年(一六八九年)五月四日
「それでは、早速ですが変化を試してみましょう」
仙台という城下町で宿をとる予定であったが、五尾となった狐娘芭蕉の姿は町の中では目立ちすぎる。そこで、狐の化ける力を試すこととなった。
芭蕉は、いきなり手渡された見慣れぬ葉っぱを額に載せて、半信半疑の表情である。
「葉っぱを頭に乗せた状態で飛び上がって空中で一回転をすると、全身の見た目を変えられるそうですが……」
「そ、そんな! 歌舞伎役者ではないのですから、拙者には無理ですよ!」芭蕉にとって、歌舞伎のとんぼやら軽業師のような身のこなしは全く不可能なことであった。
「ええ、私もそう思いましたので、別の方法も聞いております。まずは尻尾だけ変化させてみましょう。五尾をまとめて手に持っていただいて、勢いよくその場でひねってみてください」
「少し痛そうな気がしますが……。えいっ!」
芭蕉が言われたとおりにすると、空気の抜けるような音がして尻尾が一束にまとまり、瞬く間に一本の小さな尾になった。
「おおっ、初めて尻尾が生えた時くらいの大きさになりましたね」芭蕉は喜んだ。
「芭蕉先生、さすがです。これなら目立たずに済みそうですね」
こうして、無事に日が暮れる前には名取川を渡り、ふたりは仙台に着いたのであった。
元禄二年(一六八九年)五月五日
翌日、仙台を拠点として活躍している俳人・大淀三千風の家を訪ねるも、本人は行方知れずであった。
「いやあ、申し訳ございません。三千風先生は、諸国行脚の旅に出ておりまして……」
「なんと……! 拙者よりも一足早く旅に出ていたとは……」芭蕉は三千風に親近感を覚えた。
曾良は、事前に三千風宛ての手紙を出していて返事がなかったので「妙だな」と思っていたが、その不安が当たった形である。
遡ること二年前、大淀三千風は松尾芭蕉よりも一足早く、諸国行脚の旅に出ていた。
曾良の手紙は三千風本人に届いていなかったのであろう。
「それにしても、かの有名な芭蕉先生とこんな形でお会いできるとは、僥倖でございます。これも何かのご縁かと存じますので、三千風先生の弟子であるこのわたしが、仙台をご案内いたしましょう」
男は、画家にして俳人でもあるといい、加右衛門と名乗った。
「本当ですか。そうしていただけるとたいへん助かります」曾良は思いがけない提案に驚きつつも、加右衛門に感謝した。
「拙者からも、是非お願いします」芭蕉が笠を取って頭を下げると、加右衛門は狐娘の容姿に感動したらしく、肖像画を描かせてもらえないかと頼んできたので、やんわりと辞退した。
「かしこまりました。話が逸れましたが、仙台の近辺には、古歌に詠まれた名所をいくつかございます。宮城野の萩を初めとして、とても良い場所ばかりですので、是非ご案内させてください。仙台には数日滞在されますか?」
「はい。少なくとも四~五日はゆっくりしていこうかと考えております」曾良が答える。
「それでしたら、今日のところは、わたしの家に地図などもありますので、どうぞ寄って見ていってください」加右衛門はそう言って、自宅にあげて芭蕉たちを持て成してくれた。
「北野屋……」加右衛門の自宅に出ている看板を見て、曾良は合点がいった様子だった。加右衛門は画家と言っていたが、この地域で出版業を営んでいる商家でもあるらしい。そうすると、三千風先生を金銭面からも支えていた弟子なのかもしれない。
「いやぁ、それにしても、芭蕉先生の毛並みは実に美しいですね。毛色も、白と金の塩梅がたいへん素晴らしいです」家に上がると、加右衛門があまりにも手放しで褒めるので、芭蕉は肖像画を描くことを認めてしまいそうになったが、弟子の曾良が見ている手前、辛うじて堪えられたのであった。
すっかり話が盛り上がってしまい、気が付けば夕刻となっていた。
翌日は、加右衛門に別の用事があるとのことで、二日後の朝に改めて加右衛門宅を訪れる約束をして、芭蕉と曾良は宿に帰ることとなった。
「ふぅ」
部屋に戻って、芭蕉が変化を解くと、尻尾は布団のように大きく膨らんで五尾に戻った。
「変化は、集中さえしていれば一日ずっと続けていても大して疲れませんね。これなら明日以降も上手く乗り切れそうです」
元禄二年(一六八九年)五月六日
天気が良かったので、青葉城の北西に位置する亀岡八幡へ参拝した。
その後、青葉城の正門をくぐる時、俄かに雨が降り始める。
「あそこの庵の軒下で、少し雨宿りさせてもらいましょう」
曾良の提案で、庵に近づくと、それはどうやら茶室のようであった。
「おや、お前さんたち、軒下にいないで中に入ったらどうだい」
内から声がかかり、小さな入口が静かに開いた。
理由は分からないが、芭蕉は全身の毛が逆立つような感覚に包まれた。
「いえ、笠があるので、我々はこのまま帰ります。さあ、行きましょう」
素早く曾良の手を取って、芭蕉は問答無用でその場を離れた。
「えっ、一体どうしたんですか、芭蕉先生」
芭蕉は理由を説明できなかった。しかし、あの茶室の中にいた得体の知れない何者かに関わってはならぬと、芭蕉の中の九尾の狐が告げていたのだ。