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武隈の松

 元禄二年(一六八九年)五月四日


 旅の疲れも吹き飛ぶほどの美しさである。

 武隈たけくまの松を一目見て、狐娘芭蕉は感激のあまり、目を見張った。


 岩沼という宿場の入口から左手にある神社の裏手に、歌枕として有名な武隈の松がある。

 二木ふたきの松という呼び名のとおり、根元から二つに分かれて伸びる松の形が、歌枕どおりの面影を残している。


 芭蕉は「武隈の松はこのたび跡もなし千年ちとせを経てや我は来つらむ」という能因法師の歌を思い出していた。


 これは、武隈の松を見に来た能因法師が、橋の材料として跡形もなく切り倒された情景を目の当たりにして「千年の寿命を持つという松がない。前回来てからもう千年もたったのか?」と皮肉たっぷりに詠んだものである。

 言葉の裏に「この松を切った奴はどこの誰だッ!」と言わんばかりの怒りと悲しみが伝わってくる。


「拙者たちは幸運にも、千年が経つ前に来られたようです」

「そのとおりですね」曾良が笑った。


 松はその時々によって、切ったり植え継いだりを繰り返していると聞く。


「それにしても、千年の寿命とは、いったいどのようなものなのでしょう」

ふと、芭蕉は自身に宿りし九尾の狐の魂に思いを馳せていた。


 九尾の狐に関する記載は、『山海経せんがいきょう』という紀元前の成立した中国の地理書にも見られる。

 松尾芭蕉も『山海経』を読んだことがあったが、まさか自分が九尾の狐に取り憑かれる日が来るとは思っていなかった。


「千年の寿命を持つ者にとって、我々人間は憐みの対象なのかもしれませんね」曾良が武隈の松を見上げながら呟いた。


「しかし、そんな松をいとも容易く切り倒してしまうのが人という生き物の恐ろしいところじゃ」


「急に出てこないでください。お九さん」


「我をお九さんなどと気安く呼ぶでないわ!」九尾の狐は怒った口調であったが、背後で五本の尻尾がわさわさと揺れ続けていることに気付くと、小声で「これは、違うんじゃ」とだけ言って黙ってしまった。


「ところで、一つお願いがあるのですが」静かになった九尾の狐に対して曾良は言った「芭蕉先生の尻尾が五本になってから、尾が大きくなりすぎて服では隠しきれず、旅の道中で目立ってしまうんです。もうすぐ仙台ですし、人目も多くなります。あまり目立つことは避けたいと考えておりまして……。到着までに何とかなりませんか?」


「仕方ないのう。尾を小さくするには、我の力を一時的に別の依り代に移すことが必要じゃが、それでは盗まれる恐れがある……。そこで、こういうのはどうじゃ?」



 曾良に目立たない方法を伝えてから、お九さんこと、九尾の狐は再び眠りについた。


「芭蕉先生。大丈夫ですか?」曾良は慣れた様子で、気を失った芭蕉を起こした。


「おっと、曾良君。拙者としたことが、うたた寝をしていたようです」


「いえ、芭蕉先生の身体を借りて、九尾が言いたいことを言って戻っていっただけです」


「はっはっは、勝手に身体を使われるのは困りますね」芭蕉は全然困っていない様子で笑った。「しかし、数十年には、全く違った景色になっているのかもしれない貴重なこの風景を、九尾の狐と一緒に見ることができた旅人は、後にも先にも拙者たちくらいでしょう」

「そう考えると、とても感慨深いかもしれません」


 中国から日本へとやってきたと言い伝えられている九尾の狐は、いわば千年を生きる旅人だ。芭蕉はこの時にそう考えた。


「九尾の狐も、我々も、ともに旅に生きている者です。惹かれ合ったのも、そういった縁があったためでしょう」芭蕉は納得した様子で何度も頷いた。

「なるほど、確かにそうかもしれません」

「そして、この武隈の松に我々がきちんと辿り着いたことにも、きっと理由があります。例えば、このような……」

そう言った芭蕉が、首に提げた頭陀袋ずたぶくろから取り出したのは、一枚の短冊だった。


 『武隈の松見せ申せ遅桜』という一句が書かれている。


「それは確か、我々が江戸を出発する際に、挙白きょはくさんが贈ってくれた餞別の品ですね」

松尾芭蕉の弟子の一人・草壁挙白くさかべきょはく渾身の一句である。


 この辺りに詳しい挙白は「芭蕉先生! 武隈の松は是非とも見てくださいね! 歌枕のとおりで、すごく良い場所ですから!」などと強く勧めてくれた。

 そんなわけで、芭蕉は、あらかじめここで挙白に返歌を詠もうと準備していたのだった。


 『桜より松は二木ふたき三月みつき越し』


 芭蕉が桜の咲く頃から見る日を待ちわびていた武隈の松は、その句を聞いて嬉しそうに枝を震わせるのであった。

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