笠島
元禄二年(一六八九年)五月四日
狐娘芭蕉と曾良は、ちょうど雨が止んだ頃合いを見て、城下町・白石を出発した。
時折、日の光が見えるが、空の大半を雲が覆っていた。
「芭蕉先生。身体の具合はいかがですか?」
「昨夜は腹痛も収まって、ぐっすり眠れたのが良かったのでしょうか。すこぶる体調は良いですよ」
ふさふさの五本の尾を振って、軽快な足取りで進む狐娘芭蕉であった。
旅を通じて尻尾が増えるにつれて、狐娘芭蕉はますます艶やかな美女に育っていた。
道行く男性が目を奪われ、余所見で道端の田んぼに転げ落ちそうになったほどだ。
「大丈夫ですか?」思わず尻尾を伸ばして男性の身体を支え起こしてしまった芭蕉。
「ああっ、なんと畏れ多い……ありがたやありがたや……」男性は感激して狐娘芭蕉を拝んだ。
芭蕉は何だか急に恥ずかしくなってしまって、尾を背後に隠して手で押さえた。
「この辺りにお住まいの方ですか?」曾良は良い機会だと思い、男性に問いかけた。「藤原実方の墓があると聞いたのですが」
「あぁ、それなら、あすこに見える山のふもとですね。あのあたりの村里は箕輪・笠島といって、道祖神の社やら、実方の形見の薄が残っています」と親切に答えてくれた男性に感謝して、芭蕉と曾良は歩いてその方面に向かおうとした。
しかし、近頃の五月雨のために道が酷くぬかるんでおり、歩きづらい。少し進んだだけで、服のすそと毛皮が泥だらけになってしまった。
松尾芭蕉が尊崇する西行法師が、実方の墓を訪れて詠んだ歌がある。
「朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る」
その舞台がすぐ先にあると言うのに、先に進む気力が湧いてこない。
道の土は異常に柔らかく、足に絡みついてくるようだった。
おかしい。何やら、ただならぬ力が働いているように思われた。
「笠島は諦めて先に進んでください。芭蕉さん。今のあなたは、笠島に行くべきではない」どこからか、聞き覚えのある声がした。
芭蕉が曾良とともに周囲を見回すと、枝にとまった雀が「どうも。私です」と言った。
「す、すみません」流石の曾良も喋る雀の知り合いはいない。動揺しつつ「声には聞き覚えがある気がするのですが、どこかでお会いしましたっけ……」と尋ねた。
雀は、小首を傾げて、自分の姿を見直した後、「これは失礼。前回はこの姿ではありませんでしたね。改めまして、こんにちは。実方です」と軽やかに挨拶した。
「ええっ!? 実方さん!?」前回会った時は人間の姿をした幽霊だったため、曾良は見た目のギャップに驚きを隠せなかった。
「なるほど、実方雀というのは、実在したのですか」芭蕉は納得した。
実方雀。あるいは入内雀とも呼ばれる怪鳥の伝説がある。
かつて、名高い歌人でもあった実方は、同僚との人間関係が上手くいかず、京都から陸奥へ左遷させられてしまう。
このことへの恨みと京への想いを抱いたまま、実方は陸奥で客死することとなる。
実方の訃報が京都に届くとともに、京都の内裏の清涼殿では、とある怪事件が発生するようになった。
一羽の雀が毎朝やってきては、信じがたい量の米を平らげて去っていくというのだ。
この雀は、農作物にも手を付けたため、京の人々は大いに恐れ、皆で実方の霊を供養したという。
「そうです。実際は伝説とは少し違うのですが、まぁ、だいたいはその通りです」と前置きをして、実方は教えてくれた。「私の直接の死の原因は、この土地に祀られている女神の神罰でした。土地の者の話に耳を傾けず、この地の道祖神を下品だと軽んじ、馬から降りずに通り過ぎようとした私は、乗っていた馬もろとも絶命することとなりました」
「それほど強力な神様なのですか……」曾良は実方の話を丁寧に書き留めつつ、聞いていた。
この道祖神について、一説には、天鈿女命という説もあるが、今となっては定かではない。
「えぇ。それゆえに、いまの芭蕉さんが笠島へ向かうのは、命に関わるのです」雀は言う。「芭蕉さんに取り憑いている狐は傾国で有名な九尾の狐とお見受けします。その力の性質は、男性の心の掌握を得意とする反面、女性からは徹底的に憎まれ呪われる類のものです。それゆえ、笠島に行けば芭蕉さんも曾良さんも無事では済みません」
そこまで言われて強引に向かうほど、怖いもの知らずのふたりではない。
「ここは、実方さんの言うとおりにしましょう。拙者の命はさておき、同行してくれている曾良君も危ないというのは聞き捨てなりません」
「芭蕉先生……」
このあたりからでも、笠島が見えるかもしれない。そう考えていた芭蕉は、浮かんできた一句を書き留めた。
『笠島はいづこ五月のぬかり道』
この歌はいかがでしょうか、と問いかけたかったが、気が付くと実方雀はどこかに去った後であった。
「実方はいづこ……というのも良いかもしれませんね」
しばらく推敲していたくなるのを堪えて、芭蕉と曾良は元の道に戻って先へ進んだ。
やがて岩沼という宿場の入口が見えてくる。